
【書評】東日本大震災で両親を失った著者がつづる渾身のクライムサスペンス:柚月裕子著『逃亡者は北へ向かう』
Books 気象・災害 社会- English
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世の中の不条理や理不尽を描く
柚月氏は、執筆の意図について問う筆者のインタビューにこう答えた。
「私がこれまで一貫して取り上げてきたテーマとして、世の中の不条理や理不尽がある。それがまさにあの震災のなかに端的に現れていると思いました。私は、あの震災で自分が何を考え、何を感じたかを描きたかった。そして、自分の表現したいものを背負わせることができる人物を主人公にしました」
ベストセラーになった『孤狼の血』や『盤上の向日葵』など、ミステリー小説の旗手として知られる著者は、自身の辛い体験をサスペンス小説という形式に託して読者に投げかけた。物語は、地震の発生から半月ほどの短い時間軸のなかに凝縮されて展開される。しかも、早くも冒頭のプロローグで悲劇的な結末を予見させるのだ。
主人公の真柴亮(22)は、逃亡の末、ついに追い詰められて岩手県宮前市(宮古市を思わせる)の避難所になっている小学校の体育館に立てこもった。警察から見れば、彼は2人をあやめ、警官から奪った拳銃を所持し、子供を人質にとった凶悪犯だ。地元警察の包囲に加え、警視庁から特殊急襲部隊(SAT)の狙撃手も派遣され、そのスコープがまさに真柴を捉えた──。
真柴は天涯孤独で不幸な境遇にある。福島県会津の山間部に生まれ、幼いころに両親は離婚。母親に育てられたものの2歳で死別し、長い間、児童養護施設で暮らしていた。高卒後、福島県さつき市(いわき市を思わせる)の町工場に職を得るものの、職場の悪質な先輩が酒場で引き起こした暴力事件にまきこまれ、加害者として警察の取り調べを受けている最中に地震に遭遇する。
ここからが不運の連続だった。職場からはクビを言い渡され、震災の混乱のなか、ひとまず釈放されたものの、事件でもめた半グレから言いがかりをつけられ、偶然のはずみで相手をあやめてしまう。ここから真柴の逃亡が始まるのだが、彼にはどうしても北へ向かわなければならない理由があった。直前に、彼は封書の郵便を受け取っていた。その手紙に何が書かれてあったのか。
腕時計が形見として残された
震災当時、山形県在住の柚月氏が宮古市の実家に行くことができたのは、道路が破壊寸断されていたために1週間後のことだった。実家は三陸海岸から目と鼻の先の距離しかない。それまで電話がつながらず、一切、両親から連絡が途絶えていたことで彼女は覚悟を決めていた。
実家までは、クルマで宮城県の仙台市内を抜けて、岩手県盛岡市までひたすら北上し、そこから東へ、北上山地を横断して宮古市へと到る。ひと晩かけて到着したが、津波にさらわれた実家のあたりは、がれきに埋もれ跡形もなかった。
本作の読みどころは、おいおい明かされていく真柴が北へ向かう理由の謎解きと、彼を追う警察との間の緊迫した追跡劇にあるが、道中の無残な被災風景は、柚月氏が目にしてきたものだ。目的地近くの高台にたどり着いた真柴の目に映った光景はこうだ。
「沿岸の一帯には、なにもなかった。まるで巨人か大きな怪物に襲われたように、街が山際に押しつぶされていた。幾艘もの船が陸に押し上げられ、ブイや置き網がねじ曲がった電柱に絡まっている。骨組みだけが残った建物は、泥が混じった波のせいか火災のせいか真っ黒だった」
もうひとり重要な登場人物がいる。真柴を取り調べた、さつき東警察署のベテラン刑事・陣内康介だ。彼の一人娘も震災で行方不明となり、捜索に半狂乱となる妻を手助けしたいものの、職務を優先すべきという葛藤で苦しんでいる。陣内も逃亡する真柴の追手に加わるが、彼の不幸な生い立ちを調べ、北へ向かった事情に思いが至った陣内は、体育館の扉を挟み、投降するよう説得を試みる。その結末は──。
あとは読んでみてのお楽しみだが、エピローグは明るい将来を予見させるとだけ伝えておきたい。本作には、誰のせいでもない、自分で乗り越えていくしかない、というメッセージが込められている。柚月氏の両親の遺体は、震災からそれぞれ2,3週間後に自衛隊員の手によって発見された。遺体安置所で、ブルーシートに覆われた遺体の頭のそばに、着ていた服など遺品を入れた袋が置かれており、父親の腕時計が形見として残された。