【書評】「民主主義の危うさ」丹念に描く:軽部謙介著『人事と権力 日銀総裁ポストと中央銀行の独立』

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民主主義は民意を基本とした統治システムである。だが、民意は往々にして目先の利を求めたがる。その教訓を歴史に学び、先人たちはあえて 民意と距離を置く仕掛けをつくった。裁判所や中央銀行、欧州連合(EU)、世界貿易機関(WTO)などもそうだろう。一方で、選挙で選ばれたわけではないエリート統治に対する反発は近年、米欧で政治の構図を激変させている。

安倍晋三政権の8年間も「民意」を最大限に利用した統治という点で世界の潮流を下地にした治世であった。本書は日銀人事をテーマに中央銀行の独立性とは何かを論考した検証記録であるが、その背景には民主主義とは何かを問う筆者の鋭い問題意識が据えられている。

「独立性」一顧だにせず

安倍政権の最大の特徴は、連戦連勝の選挙結果をテコに、不可侵とされてきた領域に影響力を及ぼそうとした点だ。自身の政策遂行のために内閣法制局長官を差し替え、さらには検事総長人事にまで介入しようとした。その根拠となる理屈は、本書にも出てくる「(民意の)審判を受けるのは法制局長官ではない。私なんですよ」という途方もなく単純なもの。しかしこの単純論理は、社会の閉塞感を背景に意外な説得力を持った。

本書の主題である日本銀行総裁や審議委員をめぐる人事でもそうだった。日銀総裁人事はこれまで日銀と財務省が水面下で両組織出身の候補者を挙げ、それを首相が追認するという形で行われてきた。筆者はそれを「エリート主義」と呼び手放しで肯定しているわけではないが、民意の危うさを遮断する一つの知恵として一定の理解を示す。そこに史上初めて介入したのが安倍首相による黒田東彦総裁指名だった。

筆者はその過程を関係者へのインタビューを中心に書籍、新聞記事、国会議事録などを渉猟し丹念に検証する。白眉は2012年に安倍が次の総裁人事を意のままにしようと動き出した場面だ。大胆な金融緩和を柱の一つとするアベノミクスに対し、白川方明総裁時代の日銀はそれに抵抗を続けた。

そこで安倍は側近の本田悦郎・内閣官房参与に次期総裁候補者のリストを作るよう命じる。本田が本命として挙げたのは黒田と岩田規久男・学習院大教授。財務官OBの黒田は当時、アジア開発銀行総裁という立場でかねて安倍の主張する金融緩和を強く支持していた。安倍は「マスコミや経済学者からさんざん批判されていた時に、黒田さんは、私の政策を評価していたのです。政府側の立場の銀行総裁が、当時野党だった党首の政策を、ですよ」とこれに感激する。

結局、岩田が「自分は副総裁がいい」と譲るのだが、安倍はそれを伝えた本田に「岩田さんでなくてもいいのか」と問うている。当事者たちの舞台裏での逡巡(しゅんじゅん)や本音が垣間見える描写は圧巻だ。この間、日銀、財務省は蚊帳の外。中央銀行の使命や独立性は一顧だにされず、総裁人事があくまでアベノミクスという一人の為政者の政策推進材料として使われたことが浮かび上がってくる。

民意背景に独裁へ

中央銀行はなぜ独立性が問われるのか-。一般論で言えば、物価の安定という中央銀行の使命を果たす上で、目先の景気を重視しがちな時の政権と判断が異なるケースがあるためとされる。有権者を意識して景気ばかり優先すると、インフレが制御できなくなる。長い時間軸で見て経済社会は大きな損失を負うという経験則が生み出したのが「独立性」という知恵だった。それは1998年施行の改正日銀法でより明確化されていた。

その独立性が無残に崩れていく過程を筆者は後段で詳細に再現する。独立性を担保する仕掛けの一つが審議委員の存在だ。審議委員6人は、総裁と2人の副総裁を含めた9人の金融政策決定会合で1人1票の投票権を持つ。本書は安倍がその審議委員をも自身の意に沿った人物にすげ替えていく経緯を描き出しているが、興味深いのはその前の局面。総裁が黒田に代わった直後の2013年4月の決定会合だ。

この時はまだ白川の反アベノミクス路線を支えてきた審議委員が半数以上を占めていた。審議委員の独立性や政策の一貫性を考えれば、総裁や副総裁が代わったからといってそれに準じる必要はない。だが、この制度上の仕掛けはあっけないほどもろかった。黒田は「マネタリーベースが年間60兆~70兆円増加するような金融市場調節を行う」という大胆な緩和策を提案し7対2で承認される。それまで白川路線を支持していた審議委員の多くが態度を変えたのだ。

なぜ彼らは腰砕けになったのか。筆者が当事者から直接引き出した言葉は衝撃だ。ある審議委員は「反対することは考えていなかった。(中略)組織人としては、やむを得ないと思った」と話し、別の審議委員は「12月の総選挙で『大胆な金融緩和』を公約にした安倍自民党が圧勝した。これは国民の意思だ。そこまでやらざるを得ないということだ」と語った。審議委員を託されるほどの金融の専門家たちが、中央銀行の独立性の意義をその程度にしか理解していなかったのだ。

これに対し筆者は「もし『選挙結果を重視する』というロジックに重きを置くならば、中央銀行の独立よりも選挙結果の方が重大ということになる。それは新日銀法が予定していたものなのだろうか」と根源的な疑義を示す。

さらに目を引くのは、政治からの「独立性」を血肉化しているはずの日銀幹部らも、総裁交代と同時に態度を変え、黒田提案に抵抗する審議委員を水面下で説得している点だ。筆者はその経緯を記しながら「多くの日銀マンにとって行内の政権交代に適応する以外、生きていく道はなかった」と冷ややかにつづっている。

新日銀法で高らかに宣言したはずの「独立性」は、なりふり構わぬ為政者の前ではかくももろいものであった。

民意は独裁を防ぐための重要な要素ではあるが、近代の歴史は、民主主義制度下にあっても民意とは隔絶しなければ危うい分野があることを示した。だが、そのことに無自覚な為政者が現れ、民意を背景に意のままの人事を行使したとき、精緻に築き上げた現代の民主主義システムは瓦解(がかい)する。そしてそれは民主主義が忌避したはずの独裁につながっていく-。民主主義にとっての「民意」はそうした危険と背中合わせであることを本書はあますところなく描き出している。(敬称略)

『人事と権力 日銀総裁ポストと中央銀行の独立』

『人事と権力 日銀総裁ポストと中央銀行の独立』

岩波書店
発行日:2024年7月26日
四六判:280ページ
価格:2750円(税込み)
ISBN:978-4-00-061648-5

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