【書評】自然、人間、そして昆虫:養老孟司×奥本大三郎著『ファーブルと日本人』
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都内の「ファーブル昆虫館」で対談
フランスの博物学者ファーブル(1823-1915年)は『昆虫記』全10巻を著わしたことで世界的に知られている。「定説を信用せず、全て自分で実験をして、次々と昆虫の生態を明らかにした」。昆虫の本能と習性の研究を通じて、自然と人間の関係を考察した生涯だったともいえよう。
対談集の著者は養老孟司氏(解剖学者、東京大学名誉教授)と奥本大三郎氏(フランス文学者、埼玉大学名誉教授)。少年時代から昆虫を愛する両雄だ。非営利組織のNPO日本アンリ・ファーブル会の理事長が奥本氏、養老氏は理事を務めている。
対談の初回は同会が都内で管理運営し、奥本氏が館長の「虫の詩人の館」(ファーブル昆虫館)で行われた。2回目以降は「Zoom(ズーム)」方式で進めたという。ファーブルを切り口として今日的な様々なテーマについての対話をまとめたのが本書である。
養老氏「虫への感覚が似ている」
「ファーブルは、母国フランスよりも、日本で親しまれた。日本とヨーロッパでは昆虫に関する捉え方がまるで違う」。昆虫愛好家の長老、養老氏はこう前置きして「昆虫に興味を持つファーブルはフランスでは奇人、変人だったが、日本では昆虫少年は当たり前の存在」と指摘する。
30年間かけて『ファーブル昆虫記』を完訳した奥本氏は「実は、フランス人はファーブルの本をちゃんと読んでいなくて、いまでもその業績を正当に評価する人は少ない」と訴える。養老氏は「ファーブルと日本人は、虫に対する感覚が似ている」と応じている。
奥本氏「日本人の眼は接写レンズ」
評者は1995年1月23日、都内の日本昆虫協会事務所で奥本氏(当時、同協会会長)にインタビューしたことがある。花鳥風月を愛(め)でる日本人の眼は「細かいところまでよく見える接写レンズ。これが半導体の成功にもつながった」との言説が新鮮だった。奥本氏は本書でも、江戸時代中期に京都で活躍した画家、伊藤若冲(じゃくちゅう)の作品について次のように論評している。
若冲は虫を非常によく見ていますよね。草のつるからキリギリスがぶら下がっている。それを、体の裏側から描写している絵があります。裏から描いた虫の図は珍しい。日本人は、誰でも接写レンズの眼を持っているのでは、と思わされます。
スマホを切り昆虫採集に行こう
日本では1960年代、子供たちを中心に昆虫採集ブームが起きた。夏休みの自由研究は昆虫の標本作りが定番だった。当時は昭和の高度経済成長時代で公害問題も深刻だったが、それでも虫はかなりいた。
翻って令和の日本──。農薬や都市開発などで自然破壊が一段と進んだ。養老氏は「現在では目に見えて植物も昆虫も減っている」。奥本氏は「いまの子供はいろいろなものに関してリッチですけれど、虫に関しては貧乏」と“虫貧乏”時代の到来を告げている。
今年7月28日、評者はファーブル昆虫館で奥本氏に29年ぶりに面会した。傘寿(さんじゅ)の同氏から「自然貧乏」というキーワードを聞いた。
養老氏は本書で、ファーブルの生き方を振り返ってこう記している。
スマホで調べて解決ではなく、AIのように、これまでのルールをもとにして疑問を解いたのではなく、対象を直接見つめ、自分で実験をして、昆虫の生態の謎を紐解いた。
養老氏は「外に出て、子供を自然に触れさせるには、週に一回でも月に一回でもいいから、スマホを使わない日を決めたらいい」。奥本氏も国民の休日として「ノースマホデー」を提唱している。たまにはスマホのスイッチを切って、昆虫採集に行くのも悪くない。
大地震や富士山噴火にどう対処
ファーブル、本書の著者に共通しているのは「自然、人間、そして昆虫」を愛していることだろう。日本の昆虫学普及に貢献した志賀夘助(うすけ)氏(1903-2007年)が自著『日本一の昆虫屋 わたしの九十三年』(1996年刊)で書き残した「人間の自然とのかかわりは、昆虫に始まって、昆虫に終わる」はけだし名言だ。
博覧強記の養老、奥本両氏によるエスプリも交えたやりとりのテーマは幅広い。日本人の自然観、西洋の価値観や科学技術信仰への疑問、スマホ・AI時代への提言なども含蓄に富む。
本書の刊行は8月8日の南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)発表の1カ月前。養老氏は本書で東南海、南海トラフの地震に連動して「富士山の噴火が起こり得る」とし、警鐘を鳴らしている。
他人の決めたルールに従い、周りの目ばかりを気にして生きる日本人は、ずいぶんファーブルから遠くなってしまった。自立して生きることができなくなってしまっているのだ。こんな状況では、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震など、想定外の出来事が起こったときに、対処などできないだろう。自然は、こちらの予想通りには動いてくれない。