【書評】変わらないことの価値:小野伸二著『GIFTED』
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2000年代の前半、スポーツ雑誌の編集部で働いていた時に何度も耳にした名前が「小野伸二」だ。
日韓W杯で一気に盛り上がったサッカー熱はその後も冷めることなく、さらに「欧州サッカー」という人気コンテンツも加わり、テレビでも新たに専門番組がいくつも始まるほど。
担当していた欧州サッカーの取材は移動距離も長く、たいていの場合、一緒に行動しているライターやカメラマンたちと食事かサッカーの話をして時間が過ぎていった。
新米サッカー編集者だった私の「印象に残っている日本の選手は誰ですか?」という質問に、ベテランジャーナリストのほとんどが挙げる名前こそ、小野伸二だった。
「〇〇の時の伸二のプレーは本当にすごかった」(たいていエピソードが違うところがまた、小野伸二のすさまじさを表していると思う)
「伸二を撮っていると楽しいんだよね」「練習だといつもいたずらばっかりでさ……」
オノシンジというキーワードが出ると、みんなどこか幸せそうな顔で話し出したことを、今もよく覚えている。
彼らは日本代表がW杯に初めて出場した1998年よりずっと前からW杯を取材していて、いわば日本サッカー界の生き字引。マラドーナやペレ、クライフなど世界のトップクラスの選手のプレーを間近で目にしてきている人たちだ。そんな彼らが、「世界で戦える」と胸を高鳴らせた日本人選手が、小野伸二だったのだ。
W杯デビュー戦で股を抜く
その小野伸二が、サッカーを始めた少年時代からサッカー選手を引退する2023年までを自ら綴ったのが本書だ。
とにかくサッカーがしたくてたまらなかった少年は、才能を開花させて各年代の日本代表に選ばれ、名門・清水商業から浦和レッズに入団。1998年のフランスW杯では、日本人最年少のW杯デビューを果たす。2002、06年とW杯は3大会に出場し、フェイエノールト(オランダ)ではUEFAカップ優勝。Jリーグでは浦和レッズ、清水エスパルス、コンサドーレ札幌などに所属した。
ピッチに現れる小野伸二はいつも笑顔でボールと戯れ、周りを笑顔にしていた印象だ。本書でも何度も「僕はサッカーが大好きだ」とストレートに書いていて、そのまっすぐさは、1ミリも揺らがない。
「サッカーが楽しみで仕方がない」という思いが持つ力。
それは大人になった今も消えることがない。僕にとってはどこに行っても楽しいのがサッカーだった。
「サッカーって楽しい」という基準が小野伸二という選手の根幹にあった。
プレーする場所が小学校時代のグラウンドから、W杯のスタジアムになっても、チームメイトが同級生から世界のトッププレイヤーになっても、小野伸二が自然体で何も変わらないように見えたのは、「どこでプレーするか」ではなく「楽しいかどうか」という自分の中の絶対軸があったから。
そうでなければ普通、18歳で初出場したW杯でのファーストタッチで、いきなり相手選手の股を抜こうとは思わないだろう。当時の監督・岡田武史氏も本書で「あのプレーが象徴しているけれど、伸二は、どんなときも変わらない」と語っているくらいだ。
「誰かが期待するような挫折」
どんなときも変わらない。
これが小野伸二という稀代のサッカー選手の凄みだ。
例えば、小野伸二を語るとき「あれさえなければ」という言葉と共に語られる大けががある。19歳の時に、相手の強烈な後ろからのタックルによって負った膝の前十字靭帯(ぜんじゅうじじんたい)断裂だ。本書でも「以来、ピッチの見え方がそれまでと違うものになった」と振り返っている。
それでも。
このケガさえなければ──、ビッグクラブに行けていた、もっと点を取れていた、日本史上最高の選手になったという言葉を、小野はシンプルに否定する。
悔しさも、ショックもあった。でも、それは「これから数カ月、好きなサッカーができない」ことが中心であって、誰かが期待するような挫折みたいなものだとは思っていない。
スポーツを語るとき、つい私たちは波瀾(はらん)万丈のストーリーや笑顔と涙の対比など、ありがちで分かりやすい型に選手をはめようとしてしまう。
幼いころから天才と呼ばれた選手が負った、運命を変えるほどの大ケガ。そして「あのケガさえなければ」の言葉が醸し出すドラマチックさ。
きっと、何百回、いや何千回と、「あのケガ」について尋ねられてきたことだろう。
小野は本書で、ケガの影響は認めながら、そんな「悲劇のヒーロー」になることは軽やかに、でもきっぱりと拒否している。大切なのは得られなかった何かについて語ることではなく、楽しくサッカーを続けることだったんだと。そして、自分にとってその優先順位はいつだって変わらないのだと。
さらりと読める1冊に見えて、小野伸二の強さがずっしりと詰まった本だ。