【書評】『源氏物語』を編んだ紫式部の史実に基づくリアルな姿:倉本一宏著『紫式部と藤原道長』
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紫式部の父親は「無官の貧乏学者」
NHKの発表では、物語は幼なじみだった紫式部と藤原道長が互いに惹かれ合っていながらも身分の違いからそれぞれの道を歩み、やがては支え合う関係に──、と進行していくそうである。
しかし、本書の著者は序文で「ストーリーが独り歩きして、紫式部と道長が実際にもドラマで描かれるような人物であったと誤解されるのは、如何なものか」と書いている。本書の狙いは、『紫式部日記』や『御堂関白記』(道長が遺した日記)など確実な一次史料を基に、「ここまでは史実である」という両者の「リアルな姿」を明らかにするとしている。著者は、紫式部と道長の生涯を時系列的に解説していくが、ここでは紫式部について紹介しておきたい。
紫式部の父母はともに藤原氏北家(ほっけ)の流れをくむ貴族ではあるが、傍流のため、父・為時(ためとき)は「無官の貧乏学者」にすぎなかった。そもそも紫式部というのは後世の通称であって本名は不明。生年には諸説あるが、著者は973年(天延元年)を採用して記述を進めている。
母親は早世し、為時は再婚する。のちに為時は地方の官職を得るが、総じて無官の時期が長い。少女時代の紫式部は知識欲旺盛だった。父親から手ほどきを受けた漢籍ほか、仏典(『法華経』など)、歌集(『古今和歌集』など)、史書(『日本書記』)に通じ、和歌を詠む能力にも長けていた。その秀才ぶりは宮廷社会に広まっていたという。
年の差婚と2年半の結婚生活
998(長徳4)年、紫式部は結婚する。夫となる藤原宣孝(のぶたか)は能吏だが、このときすでに46歳で再婚。すでに子をなした女性も3人いる「放埓(ほうらつ)な性格」であった。一方の紫式部も26歳の晩婚。それは彼女の適齢期に父親の無官が原因で、「当時は男性が婿(むこ)として妻の実家に入る結婚形態」であったから、実家の経済状態が悪ければ夫を持つことはできなかったのだ。
しかし、結婚したものの、「宣孝は紫式部と同居しておらず、いずれかの旧妻(嫡妻)の許で暮らしている」ので、翌年には「さっそく痴話喧嘩の歌を残している。紫式部の性格の強さを示すものであろう」と著者は書く。2人の間に女子が誕生するものの、宣孝が病死。わずか2年半の結婚生活に終わったのだ。
ともあれ、宣孝との日々が、紫式部の特異な男性観や結婚観を生み出したことは確実である。それはやがて、『源氏物語』の世界にさまざまなかたちをとって現れることになるであろう。
「王権と宮廷政治」の内実を描く
夫の死後、紫式部は藤原道長の娘・彰子(しょうし)の許に女房(女官)として出仕することになる。道長は彰子を後宮(こうきゅう、皇后の殿舎)に入内(じゅだい)させていたが、すでに一条天皇には皇后の定子(ていし)がおり、彰子は中宮(ちゅうぐう、皇后の別称)となる。一条は定子を寵愛(ちょうあい)していた。
『源氏物語』は、全編54巻に及ぶ長大な物語である。著者によれば、紫式部は夫の死後、後宮出仕以前に執筆を始めていたという。寡婦となった彼女は、宮仕えをしながら物語の続きを編んだが、当時の紙は高価な貴重品で入手困難なものだった。なぜ、物語を残すことができたのか。『紫式部日記』には、道長が紙や筆、墨、硯を提供していたと記されている。そのもくろみは何であったのか。
『源氏物語』は、後宮での彼女の見聞をもとに、道長が権謀術数をめぐらせて絶対的な権力を確立していく過程で生まれた。このあたりの解説が本書の読みどころとなる。一見すると「雅(みやび)やかな恋愛物語」のようだが、その本質は「王権と宮廷政治」の内実を描いたものだ。「物語好き」な一条天皇は、彰子のご在所を頻繁に訪れ、この作品を「人にお読ませになられてはお聞きになっていた」(『紫式部日記』)ことから、著者はこう書いている。
道長の目的が、この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう。
そして道長は、次の三条天皇との政治闘争を経て、一条天皇と彰子の間に生まれた男子を後継とし、自らは「摂政」として絶対的な権力を得る。ときに紫式部を利用することもあり、彼女にとって宮中生活はなじめないものだった。晩年は浄土信仰に「傾倒」し、出家を望んでもいた。1027(万寿4)年、道長は62歳で死去。紫式部の没年は、その前とも後とも、学説は分かれているが、「道長家の栄華も、紫式部と『源氏物語』の賜物(たまもの)」というのが著者の結論である。
さて、大河ドラマではどのように描かれるだろうか。史実と比べて鑑賞するのも一興だ。「摂関家の子息である道長と無官の貧乏学者の女である紫式部が幼少期に顔を合わせた可能性」は、果たしてあったのか。それは本書を読んで確かめてほしい。道長と紫式部とは情を通じていたのか。通説では、紫式部は道長の「召人(めしうど)」(お手付きの女官)だったともいわれる。著者は否定的なので、学問的な根拠には乏しいのだろう。