【書評】外交・財政に通じた「第四の男」:鈴木荘一著『明治から大正の危機を救った大隈重信の功績』

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大隈重信は明治維新の三傑に続く“第四の男”と呼ばれ、日本の近代化の立役者だった。本書では日本初の政党内閣の首相となり、財政・外交で指導力を発揮した姿を描いている。特に「英米協調路線」は今日の日本外交にとっても教訓となろう。

「龍の物語」のような波乱の人生

大隈重信(1838~1922年)が早稲田大学の創設者であることは人口に膾炙(かいしゃ)している。しかし、政治家としてどのようなことを成し遂げたのかはあまり知られていない。

東京大学経済学部を卒業した著者は「私は早大と何の関係もないが、ある種の義侠心をもって、明治から大正における日本の危機を救った第一級の政治家大隈重信の功績を語る」と決意、本書を上梓した。

早稲田大学の「稲門祭」の日の大隈重信像(2023年10月22日、東京・新宿区)=評者撮影
早稲田大学の「稲門祭」の日の大隈重信像(2023年10月22日、東京・新宿区)=評者撮影

明治維新の三傑は西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といわれる。本書では大隈を「第四の男」と位置づけ、「わが国の危機を救った後始末の男だった」と評価している。著者は大隈の政治家としての生涯を野球の“救援投手”にも例えている。

大隈は、リリーフで登板するまでは海底に棲(す)んで雌伏している深海魚のようにほとんど目立たず、片隅で閑居して研鑽努力を重ね勉学・思索にふけっていて、何をしているのか常人にはさっぱり分からない。しかし我が日本がいよいよ袋小路に入って危機に至るや、何処からともなくお声がかかって一気に浮上し、檜舞台に登って快刀乱麻のごとく諸懸案を解決する。そして問題を解決して平穏が訪れると、惜しまれつつ静かに舞台から降りてゆく。

この描写を読んで、評者が思い起こしたのは中国の古典『易経』の研究家、竹村亞希子氏が著書『「経営に生かす」易経』で紹介している「龍の物語」である。地に潜んでいた“潜龍”が修養を重ね、段階を経て天空を駆け巡る立派な“飛龍”へと成長、やがて衰えていく展開だ。

大隈は1881年の「明治十四年の政変」で明治政府中枢から追放されたものの、その後、外相を歴任、首相にも登り詰めた。本書は大隈の波乱に富んだ人生を、日本近代史と絡めて浮き彫りにしている。

英公使を論破し、外交デビュー

大隈が外交デビューしたのは、1868年の英国公使パークスとの論争だった。明治新政府が隠れキリシタンを弾圧したのに対し、剛腕のパークスは列国を代表して新政府に猛抗議した。パークスは新政府の有力な後ろ盾だったことから、新政府は苦境に立たされた。本書によると、「このとき無名だった大隈は新政府代表に抜擢されてキリシタン問題について英公使パークスを論破し、新政府の窮地を救って頭角を現した」のである。

大隈は肥前佐賀藩士の長男として生まれたが、若いころに長崎に遊学、オランダ系米国人宣教師フルベッキから英語と英学を学んだ。大隈がパークスを言い負かし、勇名をはせたのは「フルベッキから新約聖書やアメリカ独立宣言を学び、キリスト教の歴史が戦争と侵略と弾圧の歴史であることを知っていたからできた反撃なのである。これが大隈の教養と弁論術だった」と著者は説く。

第二次大隈内閣は英米協調外交

大隈は政変で下野してから東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立した。政界には伊藤博文内閣の外相として復帰、条約改正に取り組んだが、その内容を不満として爆弾を投じられ、右足を失う。それでも1898年に日本で最初の政党内閣、第一次大隈内閣(隈板内閣)の首相兼外相に就いた。

1914年、大隈が76歳のときに第2次大隈内閣が発足した。本書では「日露戦争以降にわが国が抱えた『財政再建問題』など諸々の難問を一気に解決する大正政治史上、最も卓抜した内閣の一つである」と高く評価している。

第二次大隈内閣は日英同盟に基づき、連合国側で第一次世界大戦に参戦、日本は戦勝国の一員になった。本書によると、米国は当時、太平洋制覇のため日本を軍事征服する「オレンジ計画」を練っていた。

著者は「第二次大隈内閣はイギリスを支援して第一次世界大戦に参戦し、アメリカの友軍になってドイツと戦い、オレンジ計画を空洞化させた」と解説している。大隈は親英派の外相加藤高明とともに「英米協調外交」を展開、「国防上の脅威を緩和させることにより、軍事予算の膨張を防ぐ」政策を採用したのだ。

しかし、長州閥で反英主義者の元老、山県有朋は第二次大隈内閣を「圧倒的な腕力で」つぶした。「日英同盟は廃棄され、わが国は太平洋戦争にいたる国際的孤立の落とし穴に落ちた」のが現実の歴史だ。

佐賀出身「日本人離れした快男児」

著者は佐賀出身の大隈の人物像をこう描いている。

金銭欲はなく、権力欲もないし、出世欲もない。しかし問題解決能力と仲間作り能力と自己顕示欲が人並み以上に強い。そういう意味で日本人離れした快男児だった。

人脈も幅広い。若いころ、築地の大隈邸には「長州の伊藤博文や井上馨、旧幕臣の渋沢栄一や前島密ら若手官僚が集まって寝起きし、夜を徹して外交・内政・財政などを談じ合った」。“築地梁山泊”とも呼ばれた。

大隈重信生誕の地にある記念館の大隈像(2023年9月22日、佐賀県佐賀市)=評者撮影
大隈重信生誕の地にある記念館の大隈像(2023年9月22日、佐賀県佐賀市)=評者撮影

大隈は身長が180センチほどあったといわれる。1908年11月22日、早大の戸塚球場での米大リーグ選抜チームVS早大野球部の国際親善試合で、右足義足の大隈が始球式をしたのが日本野球史上で最初とされる。ところが、投げたボールはストライクゾーンを大きく外れたという。

打者だった早大主将は「早大総長の投球をボール球にしては失礼になる」と考え、わざと空振りをした。「これ以降、一番打者は始球式の投球を空振りすることが慣例となった、とされる」とのエピソードも本書で紹介されている。

【大隈重信の略年譜】

1838年 2月16日、肥前国(佐賀県)で誕生、父信保・母三井子
1861年 長崎でオランダ系米国人宣教師フルベッキに英学を学ぶ
1868年 明治政府参与兼外国事務局判事、英公使パークスと論争
1869年 三枝綾子と結婚、大蔵大輔として鉄道・電信建設を推進
1870年 明治政府参議、73年大蔵卿を兼任
1881年 「明治十四年の政変」で伊藤博文らが大隈重信らを追放
1882年 立憲改進党を結成、東京専門学校(早大の前身)を創立
1888年 伊藤博文内閣の外相に就任、条約改正交渉に当たる
1889年 玄洋社社員に爆弾を投げつけられ負傷、右脚を切断
1898年 日本初の政党内閣、第一次大隈内閣(隈板内閣)で首相
1914年 第二次大隈内閣で首相、第一次世界大戦に参戦
1915年 中国での権益拡大を狙う「対華二十一カ条要求」提出
1922年 1月10日死去、日比谷公園で国民葬(30万人余参列)

『明治から大正の危機を救った大隈重信の功績――議会政治をつくる苦闘の道』

『明治から大正の危機を救った大隈重信の功績――議会政治をつくる苦闘の道』

共栄書房
発行日:2023年10月10日
四六判:224ページ
価格:1650円(税込み)
ISBN:978-4-7634-1113-6

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