【書評】冷たい国策に逞しく生きる:寺尾紗穂著『日本人が移民だったころ』

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日本人の海外移住は明治元年から本格化した。本書は夢や野心を秘めて南洋の島国パラオや南米パラグアイなど新天地に渡った庶民たちの肉声を記録したルポルタージュだ。移民受け入れが喫緊の課題の日本社会への直言も盛り込まれている。

明治時代から「移民送り出し国家」

横浜港に臨むレンガ色のビルの2階に国際協力機構(JICA)が運営する「海外移住資料館」(Japanese Overseas Migration Museum)がある。2002年に開館したもので、日本の海外移住者たちの歴史を展示している。ここを見学すると、日本は明治時代から戦後のある時期まで、「移民送り出し国家」だったことがわかる。

移住船出港地のひとつ横浜港にある「JICA横浜 海外移住資料館」(2023年8月19日、横浜市中区新港)=評者撮影
移住船出港地のひとつ横浜港にある「JICA横浜 海外移住資料館」(2023年8月19日、横浜市中区新港)=評者撮影

明治維新以降、政府は貧しい農民らの救済策として積極的に移民を送り出した。今年9月1日は関東大震災から100年だが、当時は罹災者(りさいしゃ)の海外移住奨励のため渡航費補助を予算化した。戦時中、移民は中断したが、戦後も国策として主に南米への海外移住を後押しした。戦後の移民には炭鉱離職者も含まれていた。政府が「出稼ぎ労働者」を送り出したのは、失業対策だけでなく、移民からの母国への送金も期待していたのかもしれない。

ハワイや北米、ブラジルなど中南米へと海外に移り住んだ日本人とその子孫ら日系人は現在、380万人を超えている。本書では1920年から終戦まで日本が統治した現在のパラオ共和国への移民と引揚者たちが主人公だ。彼らが戦前、戦後を通じて悲惨な経験をした事実や、逞(たくま)しく生きてきた姿を丹念に追っている。

「オーラルヒストリー」で体験描く

著者、寺尾紗穂(てらお・さほ)氏は1981年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科の修士課程修了。2006年には『愛し、日々』でシンガーソングライターとしてデビューした。音楽活動と並行して、ノンフィクションやエッセイの執筆も精力的に続けている。

『評伝 川島芳子』、『あのころのパラオをさがして 日本統治下の南洋を生きた人々』など著書も多い。著者が南洋の移民問題に関心を持ったのは、パラオの「南洋庁」に赴任したこともある小説家、中島敦(1909~42年)の作品を学生時代に読んだのがきっかけだった。

本書では「オーラルヒストリー」の手法で、10人の人物を軸に個人的な体験を生々しく描いている。パラオは戦時中、旧日本軍と米軍との激戦地となった。移民としてパラオに渡ったり、パラオで生まれたりした人たちが日本に引き揚げてくる際には様々な悲劇も起きた。

例えば、1938年パラオ生まれの阿良光雄さんのケース。パラオが米軍の空襲を受け、四男だった阿良さんは母親や兄弟姉妹と44年5月、船を乗り継いで沖縄県与那国島を目指した。当時フィリピン海峡は激戦のさなかで「最初の船で、姉が亡くなり、魚雷でね」。次の船では「おふくろがあんまり暑いもんだから、甲板にあがって涼しい所で五男にお乳をやっていた。そこに魚雷がきて、爆風で抱っこしてた弟が吹っ飛んでしまって」。母親は何とか生き延びたが、姉と弟を相次いで失ったのだ。

与那国で敗戦を迎えた阿良さんの戦後の人生も綴られている。那覇商業を卒業して琉球銀行に就職、八重山支店長、コザ支店長を歴任した。しかし、「阿良さんには戦後も気になり続けたことがあった」。16歳で徴集された次兄はパラオからペリリュー(日米両軍が死闘を繰り広げたパラオ諸島の小島)に送られ、戦死したが、軍属は17歳以上とされ、一切の補償がなかったことだ。著者は「どこまでも理不尽な話である」と指弾する。

日本→パラオ→日本→パラグアイ

元移民が戦後、再び海外に渡る“再移民”も少なくなかった。本書では「戦前から戦後にかけて日本→パラオ→日本→パラグアイという大移動をした」中村家と溝際(みぞぎわ)家という二つの家族を取り上げている。著書は桐朋女子時代の後輩、池山由香さん(アルバ奏者・声楽家)や移民からパラグアイの駐日大使になった田岡功さんらの人脈を駆使して、両家族を探り当て、コロナ禍のなかパラグアイにまで足を運んで取材した。

1958年に日本を発った二家族のファミリー・ストーリーは波乱万丈で読み応えがある。著者は「日本人が移民だったころ、苦労や苦難は当たり前にあった。よりよい明日のために古い土地を捨て、何度でも新たな土地に挑み、根を下ろした」と総括している。

日本の移民政策は必ずしも自国民に温かくはなかった。第1回芥川賞作家の石川達三(1905~85年)はブラジル移民船に乗った体験を基にした受賞作『蒼氓(そうぼう)』で知られる。この社会派作家は移民を「棄民」として描いた。

海外移住資料館には北中南米への日本人移民たちの歴史が展示されている(2023年8月19日)=評者撮影
海外移住資料館には北中南米への日本人移民たちの歴史が展示されている(2023年8月19日)=評者撮影

確かに日本人移民は米国で人種的差別を受けた歴史がある。各国から引き揚げてきてからも、未墾の開拓地に押しやられるなど国内でも冷遇された。一方で「外国で一旗揚げたい」という人たちもいたわけで、バイタリティや、したたかさも備えていたのではないか。

パラグアイに移住した中村家の二代目の妻、1933年北海道生まれの博子さんが終の棲家(ついのすみか)となった移住地で著者に語った言葉が象徴的だ。

「苦労したねと言われるけど、もう忘れちゃったよと。今はちゃんとしているし、いいんですよ。これから生きることを考えなきゃね。朝起きたら朗らかに」

日本人が再び海を渡る時代に?

世界に広がる日系人のネットワークは400万人規模になろうとしている。宮崎県の場合、戦前、戦後にわたって4000人以上の県人が海外に移住し、その絆は強い。置県140年の今年10月27~29日にシーガイアコンベンションセンターで「宮崎県人会世界大会」が開かれ、世界各地と国内の県人会から約1700人が参加する見通しだ。

翻って日本の現状はどうか。著者は次のように指摘する。

ここ数年日本の国力が落ちたということが、国内でも騒がれるようになってきた。移民を迎える側だったこの国は、アジア諸国の中でもぐっと低迷し、すでにアジアの移民からも稼げない、と避けられるようになっている。最近のニュースでも目にしたが、日本人が働く場を移すために海を渡り始めている。

人はより生きやすい場所を求めて国を離れる。今こそ移民の送り出し大国だった日本の歴史と、日系の人たちのそれぞれの国での歩みが紐解かれ、共生社会への道程を学ぶ時だと思う。

【日本人の海外移民史】

1868年 日本人153名が帆船サイオト号で横浜からハワイに出航、明治元年の移民第一陣で「元年者」と呼ばれる
1896年 移民の保護と送出移民数を制限する「移民保護法」施行
1908年 第1回「ブラジル移民」781名が笠戸丸で神戸を出航
1922年 パラオ諸島コロール島に「南洋庁」を設置、移民本格化
1924年 米国、日本人移民の入国を全面的に禁止
1935年 パラグアイ政府、日本人移民100家族の入国許可
1952年 対日講和条約発効、日本人の海外移住が再開
1954年 パラグアイ向け計画移住第一陣が出発
1973年 移住者輸送最終船「にっぽん丸」が横浜を出航
1974年 海外移住、海外技術協力2事業団など合併、「国際協力事業団」が発足(2003年に「国際協力機構」に改組)

『日本人が移民だったころ』

河出書房新社
発行日:2023年7月30日
四六判:200ページ
価格:1980円(税込み)
ISBN:978-4-309-03122-4

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