【書評】偉大な父吉宗を継ぎ、重い障害に耐えた9代将軍徳川家重:村木嵐著『まいまいつぶろ』
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廃嫡の寸前に現れた少年
今年のNHK大河ドラマは「どうする家康」だが、28年前は「八代将軍 吉宗」だった。このドラマの中で、吉宗の長男、徳川家重となった俳優、中村梅雀さんの演技が話題となった。ろれつが回らず聞き取りにくいセリフで、鼻水をたらして泣き続ける姿は、名将軍の偉大なる父とは対照的だが、「わしは将軍などなりとうはない」と時代劇の中で障害者の苦悩を訴えた梅雀さんの熱演はとても印象に残った。徳川将軍としても忘れられがちな家重の生涯を、本作が描いている。
始まりから意外な人物が登場する。江戸町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)が、大奥で権勢を持つ、家重の乳母と会っていた。
「長福丸(ながとみまる=家重の幼名)様の御言葉を聞き取る少年が現れた」と聞いて忠相は絶句する。15歳の元服を翌年に控えた長福丸の言葉は誰も理解できず、将軍は務まらないから廃嫡だとささやかれているのを忠相は承知していた。だが、その少年が忠相の遠縁(はとこの子)にあたる兵庫(後の大岡忠光)で、長福丸のそばに仕えるようになると知って、忠相はさらに驚く。
長い間、意思が通じる者がいなかった長福丸は、2歳年上の会話ができる兵庫に会った後は、とてもうれしそうな顔になった。長福丸の言った言葉を、後ろに控えた兵庫が反復して周囲に伝えた。すると、長福丸がしっかりとした考えを持つ若者だと理解されていく。
しかし、幕閣の一部は、「兵庫が本当に若君様のお言葉を伝えておるのか」と疑う。兵庫が勝手に言ったことを、若君がうなずいているだけではないかと。兵庫も主人同様に、周囲の意地悪な声に耐えていた。
「殿の御子を挙げるように…」
名を改めた家重は京の伏見宮の姫、比宮(なみのみや)と結婚した。比宮はおしめをしている夫に驚くが、周囲からさげすみの目をむけられて、ひたすら耐え忍んでいる家重に、心を寄せるようになる。そして、妊娠。喜ぶ家重は言った。
「私には子などできぬと、誰もが思っておったろう。だがこれからはもう、そのような雑言を受けずにすむ」「私は生まれて初めて、父上を喜ばせることができた」
しかし、比宮は臨月の前に男児を死産し、間もなく亡くなってしまう。比宮は最も信頼する侍女お幸に遺言した。「殿が廃嫡されぬためには御子がいる。殿の御子を、お幸が挙げるように」
この遺言を家重に伝えたのは、お幸から話を聞いた忠光(兵庫)だった。比宮の死から3年後、お幸は懐妊し、男児を生んだ。その子に祖父の吉宗は「竹千代」という格別な幼名を贈った。家康の幼名であり、家光ら将軍の世継ぎが授かった名である。期待した吉宗は竹千代を自ら近くで養い育てた。竹千代は幼い時から賢さが際立つ子に成長し、後に10代将軍・家治となる。
「友」だった将軍と側近
吉宗は33歳で将軍となってから約30年後、大御所となり、35歳の家重が継いだ。吉宗は家康の再来だ、とも言われたが、その家康が定めた絶対の掟、長子相続を守ったのだ。大岡忠光が巧みに将軍家重の「口」の代わりを務めた。
晩年の吉宗が側近の忠相を相手にこう話す。「わしはな、家重があまりに孤独だろうと思うたのだ。あれは、友を作れぬであろう。将軍職は、友がおらねば務まらぬ。だが家重は、友を得た。わしにとっての忠相のような相手をな」。吉宗はこの後、忠相、忠光の同席のもとで家重に直接遺言する。「忠光のような友を得たことを幸いとせよ」
本書を読み終えると、この4人の最後に共通するものがあったと感じる。吉宗が大御所になって5年ほどで亡くなると、忠相は半年後に旅立った。家重が50歳の祝いを区切りに将軍引退を表明したのは、忠光が体力の限界に来たからで、忠光はその月に亡くなった。大御所となった家重は無口となり、翌年に“友”の跡を追うように亡くなった。
江戸城を去る忠光を見送りながら、家重は最上の別れの言葉を告げた。
「口がきけずに幸いであった。そのおかげで、私はそなたに会うことができた。もう一度生まれても、私はこの身体でよい。忠光に会えるならば」
著者は司馬遼太郎家の家事手伝いとなり、後に夫人の個人秘書を務めたユニークな経歴を持つ。本作で日本歴史時代作家協会賞を受賞した。