【書評】独断専行で謀略を重ねた参謀:及川琢英著『関東軍―満州支配への独走と崩壊』

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日本陸軍の満州(現中国東北部)に置かれた出先部隊にすぎなかった関東軍は、中国側の最高権力者を爆殺するなど、陸軍中央を驚かす謀略を繰り返した。そして、成立させた満州国で関東軍は政務まで行い“一国”を支配した。日本が他国から非難される原因をつくった関東軍の暴走は、なぜ止められなかったのか。本書はその謎を解き明かしていく。

北京政府の最高権力者を爆殺

関東軍の「関東」とは、万里の長城の東端に位置する山海関(さんかいかん)以東の地、つまり満州を意味する。日本は日露戦争(1904~05年)の勝利を経て、ロシアから旅順・大連がある遼東半島先端部(関東州)と、南満州鉄道(満鉄)の経営権を獲得した。

関東軍は関東州と満鉄沿線を保護するため、1919年に発足した。陸軍の出先軍だが、トップの関東軍司令官は天皇に直接に従属し、天皇から命令を受けるが、陸相ら陸軍三長官とは指揮、監督を受ける関係になかった。

また、陸軍では独断専行が奨励されていたと著者は指摘する。陸軍の教範「陣中要務令」の規定に「命令の実施には独断を要する場合すくなからず。受令者は常に発令者の意図を忖度し、独断専行以(もっ)て機会に投ぜざるべからず」(要約)とある。不測の事態に直面すれば独断専行することもあるという内容で、関東軍は独断専行を貫く姿勢を陸軍中央に突き付けていく。

「満州の覇者」として君臨し、北京政府(中華民国)の陸海軍大元帥で最高権力者の張作霖が乗った列車が28年、奉天近郊で爆破され、張作霖は死亡した。死者20人、負傷者53人の大事件で、関東軍は国民政府(蔣介石側)のスパイによる犯行と発表した。

しかし、真相は日本との関係が悪くなっていた張作霖を排除しようと、関東軍の河本大作参謀が計画した謀略だった。河本は事件後、陸軍上層部に事情を打ち明けたが、関東軍参謀の地位にとどまった。

あいまいな事件処理に怒りを爆発させた昭和天皇

だが、この事件の処分問題が当時の田中義一内閣崩壊の原因となる。首謀者は河本と知った田中首相は昭和天皇に、軍法会議で処分を行い、事件を公表すると上奏した。だが首相は、陸軍や閣僚が真相の公表を避け行政処分で済ますよう主張したため、「関東軍が事件に関与した確証はないが、満鉄線が破壊されたことなどの責任で行政処分を行う」という内容で幕引きとしたいと天皇に上奏した。

天皇は首相が前言を翻したことに怒りを爆発させ、再度、説明したいと願う首相を拒絶。天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職した。関東軍への処分はトップの同軍司令官が予備役編入(退任)、河本は停職(1年後に予備役)となった。

余談だが、田中首相は総辞職後、3カ月足らずで失意のうちに死亡した。28歳と若い昭和天皇は、首相を叱責したことが内閣総辞職、ひいては首相の早い死となったと考え、それ以来、「内閣の上奏はたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える」と決心した。この意味でも、張作霖事件はその後の日本を変えていった。

関東軍は3年後、また奉天の郊外の満鉄線を爆破した。中国軍の攻撃を受けたとして関東軍は戦闘を開始。満州事変である。この謀略を主導したのは関東軍参謀の石原莞爾だった。石原は、事件の「不拡大方針」を表明していた若槻礼次郎内閣の顔をつぶし、陸軍中央に覚悟を決めさせるため、戦線を拡大していく。

凱旋(がいせん)した本庄繁関東軍司令官は、昭和天皇から今回の事件も関東軍の謀略かと質された。本庄は「軍人と民間人の一部で謀略をやった、と聞いているが、関東軍としては謀略をいたしておりません」と答えた。

国際連盟脱退で国際的孤立を招いた関東軍の謀略

翌32年3月、関東軍はついに満州国を建国。同5月、満州国正式承認に消極的な犬養毅首相が五・一五事件で殺害される。陸軍大、中将が務める関東軍司令官は、駐満全権大使、政務を担当する関東長官を併任することが閣議決定され、満州国支配の全権を握ることになった。

だが、同10月、国際連盟が満州事変について現地派遣した調査団の「リットン報告書」が、満州国の自発的独立を否定した。この直前に満州国を正式承認している日本は、翌年に国際連盟を脱退した。関東軍の暴走が日本の国際的孤立を招いたのだ。

石原参謀はその後、本国に戻り、参謀本部作戦課長など陸軍中央の花形ポストを務める。一転して石原は「不拡大方針」を唱え、勢力圏拡大の闘いを続ける関東軍を止めるため、満州に赴いた。しかし、石原は関東軍の参謀らに「あなたのされた行動(満州事変など)を見習い、実行している」と笑われ、言い返すことができなかった。

陸軍中央が関東軍を止められなかった原因

陸軍中央が待ったをかけても、止まれないのが関東軍だった。

「関東軍でつきものだった謀略は、そもそも陸軍の常套手段であった。謀略はその隠密的な性質上、統制を困難にする要素を含んでいる。関東軍ら出先だけでなく、陸軍中央も政府方針に反する謀略に関与していた。その結果、陸軍中央が出先の謀略を抑えようとしても説得力を持たず、出先が独走していくという結果を招いた」

関東軍は特殊な集団で構成されたわけでもない。

「本国から関東軍に送られた参謀は、陸軍中央に帰属意識を有したまま赴任したわけではなく、さりとて関東軍への帰属意識を持ち続けたわけでもなかった。関東軍に来ると、強硬的になる者が多々あったが、陸軍中央に移れば、関東軍を抑えようとし、再び関東軍に戻れば、陸軍中央の統制を外れて動いている。所属した組織限りのセクショナリズムに基づいて行動していたという傾向が強い」

精鋭と言われた関東軍は日米開戦後、南方軍などに兵力を引き抜かれ「張り子の虎」となる。ソ連の侵攻を受け、居留民保護の重要任務を果たさないまま崩壊していった。

本書は中身の濃い作品だが、日中の人名や、地名が多数、詳しく記載されているので、読解に苦労する読者もいるだろう。それだけ、当時のデータがしっかりしている。旧満州地区の大学で外国人教員として4年ほど勤務した、北海道大共同研究員の著者の研究成果である。

『関東軍―満州支配への独走と崩壊』

『関東軍―満州支配への独走と崩壊』

及川琢英(たくえい)著
中公新書
発行日:2023年5月25日
303ページ
価格:1012円(税込み)
ISBN:978-4-12-102754-2

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