【書評】「世界的な植物学者」を育んだ恋女房:牧野一浡監修/四條たか子著『牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生』
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「家守りし妻の恵み」スエコザサ
東京都練馬区東大泉にある「練馬区立牧野記念庭園」――。牧野富太郎博士が大正15(1926)年から94歳で亡くなるまで30年余り過ごした住居兼植物園の跡地で、面積は2576平方メートル。テニスコート(ダブルス)に換算して10面ほどの広さがある。
その一角に「スエコザサ」が生い茂っている。そばにある石碑には富太郎が寿衛夫人を追悼して詠んだ「家守りし妻の恵みや我が学び」「世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」の両句が彫られている。
本書の監修者、牧野一浡(まきの・かずおき)氏は1946年生まれ。富太郎の曾孫(ひまご)に当たる。企業を定年退職し、現在は牧野記念庭園の学芸員を務めている。同氏はこうつづっている。
11歳年下の寿衛は、家庭を守り、研究に没頭する富太郎に尽くしました。寿衛が56歳で亡くなったとき、富太郎は前年に宮城県で発見した新種の笹に妻を偲(しの)んで「スエコザサ」と名付けたことは有名な話です。
富太郎は江戸時代末期の文久2(1862)年4月、土佐国(現高知県)で生まれた。幼いころから植物が大好きで、独学で植物学を始めた。94歳で永眠するまで全国各地や台湾、旧満州国(中国東北部)などを踏査し、一途に研究を続けた。収集した植物標本は約40万点、発見・命名した植物は1500種類以上にのぼる。自ら精緻に作画もした『牧野日本植物図鑑』(1940年刊)は最新の知見を取り込んで現在も版を重ねる名著だ。
2022年に生誕160周年を迎え、牧野博士に関する書籍の刊行が相次いだ。出版ラッシュは今年になっても続いている。数多の「牧野」本の中でも、本書はとてもユニークだ。著者、四條(しじょう)たか子氏は武蔵大学大学院の修士課程を修了し、学芸員の資格も持つ練達の著作家だ。その筆力で富太郎の偉大さだけでなく、夫人の曲折に富む生涯も詳しく描写している。いわば夫婦の物語なのだ。
甘党の令息と藩士の娘の出会い
富太郎の生家は酒屋も兼ねた裕福な商家「岸屋」だが、幼少時に父、母、祖父を次々に失った。祖父の後妻で血のつながりがない祖母、浪子が母親代わりとなり、「惜しみない愛情を注いだ」。お坊ちゃん育ちの富太郎は酒も煙草も嗜(たしな)まない。菓子が大好物の甘党でもあった。
一方、寿衛は東京・飯田橋生まれ。元彦根藩士で維新後は陸軍に勤めていた父親が亡くなると、飯田橋の広大な屋敷は人手に渡り、財産も底をついた。「京都生まれの気丈な母親が女手ひとつで菓子屋を営み」、寿衛らを育てたという。
上京し、下宿先から本郷の東京大学植物学教室に通っていた20代半ばの富太郎は現在の千代田区小川町付近にあった菓子屋で、ときどき店頭に立つ「美しい娘」を見初めた。ふたりは恋に落ち、明治21(1888)年、東京・根岸に所帯を持つ。著者はこの結婚を次のように評する。
牧野富太郎の生涯を支えられる妻は、世界中のどこを探しても寿衛以外にはいない。植物学の神様も粋な計らいをしたものである。
「道楽息子を抱えているようなもの」
牧野家は子宝に恵まれた。寿衛は13度も出産、そのうち無事に成人したのは6人といわれるが、子だくさんに加えて研究用の標本や蔵書も増える一方で、借金がかさんだ。帝国大学の助手、講師を務めたが、その給与だけでは足りなかった。
家賃が払えなくなり、家主から借家を追い立てられる。そのたびに、引っ越しを繰り返した。借金取りを追い払うのはいつも寿衛の役目だった。「富太郎はその間も奥の部屋で分厚い書物を広げ、膨大な植物標本の山に埋もれながら、研究や執筆に没頭することができた」のである。
家計を助けるため、寿衛は大胆にも富太郎や子どもたちと別居して「待合(まちあい)」の経営に乗り出した。待合とは役人や実業家らが利用する高級料亭のようなもので、芸妓を呼んでの宴席や密談の場所にもなる。渋谷の荒木山(現渋谷区円山町)で一軒家を借りて始めた待合「いまむら」の経営は順調だったようだ。寿衛にはビジネスの才覚もあった。
少年時代は裕福だった富太郎の金銭感覚は鷹揚で、貧乏学者でも必要と思った書籍はどんどん購入。洋服や食べ物にもこだわりがあり、すき焼きやコーヒーを好んだ。どんなに貧乏でもユーモアのセンスは忘れなかった。本書によると、寿衛は常々「道楽息子を一人抱えているようなもの」と語っていたという。
実は現在、牧野記念庭園になっている「終の棲家(ついのすみか)」を建てたのも寿衛の英断だった。待合を売り払い、資金の一部に充てた。しかし、安住の地の新居完成から2年も経たない昭和3(1928年)2月、寿衛は子宮がんとみられる病気で天に召された。
糟糠の妻の献身的な愛情と信念
牧野一浡氏が生まれたとき、寿衛は既に他界していた。同氏は本書巻末のインタビューで、こんなエピソードを紹介している。
叔母の話では「寿衛さんはすごく粋でおしゃれな人だった」と言っています。富太郎は、寿衛と一緒に外出するのがとても自慢だったそうです。そんな富太郎のために外出する日は、わざわざ着物を借りてきて、それを着て外出したそうです。そして、借りてきた着物だということを富太郎は知らなかっただろうと叔母は言っていました。富太郎は、寿衛と一緒に出かけてうれしくてしょうがなかったのでしょうね。富太郎にとってはほんとうに恋女房だったと思いますよ。
寿衛は娘たちに、「お父さんは植物の研究のためにお金を使っているので、うちは貧乏だけれどもあなたたちは恥じることはないよ」と言っていたと、四女の玉代から聞いたことがあります。
「日本植物分類学の父」の糟糠(そうこう)の妻、寿衛の長年にわたる内助の功について著者は「富太郎への献身的な愛情と、富太郎の好きなことをさせてあげたいという素朴な信念によって支えられていた」と洞察している。
富太郎と寿衛が幕末から明治、大正、昭和と駆け抜けた波乱万丈の物語は、春爛漫(らんまん)の4月3日から放送が始まったNHK連続テレビ小説『らんまん』のモデルになった。ふたりの実人生をたどり、数々の生の言葉を記録し、写真も満載した本書は、朝ドラをより楽しむガイドブックにもなるだろう。
牧野富太郎博士の略歴
文久2(1862)年 4月24日、土佐国高岡郡佐川村に生まれる
明治15(1882)年 自由民権運動に参加
明治21(1888)年 小澤寿衛と東京・根岸で所帯を持つ
明治45(1912)年 東京帝国大学理科大学講師
昭和3(1928)年 寿衛死去、新種のササに「スエコザサ」と命名
昭和15(1940)年 『牧野日本植物図鑑』(北隆館)刊行
昭和23(1948)年 昭和天皇に植物学をご進講
昭和26(1951)年 第1回文化功労者となる
昭和32(1957)年 1月18日、死去(享年94)。文化勲章受章
『牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生』
宝島社
発行日:2023年3月24日
A5判:128ページ
価格:1480円(税込み)
ISBN:978-4-299-03896-8