【書評】「伝説のスパイ」が東京から送信した文面が明らかに:A・フェシュン編、名越健郎・陽子訳『ゾルゲ・ファイル1941-1945赤軍情報本部機密文書』

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「20世紀最大のスパイ」とも言われる旧ソ連赤軍情報本部の諜報員、リヒアルト・ゾルゲ。大戦間際の東京での8年間、ゾルゲは「独ソ開戦」「日本軍の南進(ソ連とは戦わず南方へ)」などの極秘情報を正確につかみ、モスクワに送っていた。ゾルゲ関係文書は長い間、機密扱いとなっていたが、近年、ロシアで解禁となり、開戦前から終戦の年までのものをまとめたのが本書である。収録の218点の大半が日本では初公開で、史料的価値が高い。

ゾルゲからの情報を信用しないモスクワ

ゾルゲを中心とした諜報団の研究はこれまで、ゾルゲたちが逮捕された後、警察・検察の取調べでの供述調書や獄中記などを中心に行われていた。本書の登場で、ゾルゲがどんな報告をモスクワ(赤軍情報本部)にしていたか、またモスクワがゾルゲをどう評価していたか、その生の文面を読むことができるようになった。最初の文書から驚かされる。ゾルゲは1940年12月28日、日本国内でドイツ人から得たこんな情報をモスクワに送っている。

「もしソ連が、既にバルト地方で起きているように(ソ連によるバルト3国併合=筆者注)、ドイツの利益に反するような活動を積極的に展開するなら、ドイツはハリコフ、モスクワ、レニングラード方面の領土を占領し得るとしている」

ソ連とドイツは前年に不可侵条約を結んだばかりだが、ゾルゲは早くもヒットラー率いる独軍のソ連攻撃の可能性をモスクワに警告していたのだ。これを読んだ赤軍情報本部長の書き込みがあり、「疑わしい電報」「スターリン同志に参考のため送付すること」と記されている。ゾルゲ電はソ連の独裁者にも届けられていた。しかし、ゾルゲからの情報はモスクワに信用されていなかった。

筒抜けだった日本政治の中枢

ゾルゲは表向きドイツの有力新聞の特派員として来日。日本と同盟関係のドイツの駐日大使オットと親しくなり、さらに当時の近衛文麿首相のブレーンだった尾崎秀実(元朝日新聞記者)を「ゾルゲ諜報団」日本人グループの最も重視した情報源にして、日本の政治の中枢から重要情報を入手していた。

ゾルゲは記者らしい情景描写で、こんな場面をモスクワに送っていた。41年4月18日、その5日前に調印された日ソ中立条約についてである。

「オットー(尾崎のコードネーム)が近衛(首相)のもとを訪ねたちょうどその時、近衛は日ソ中立条約締結に関する松岡(外相)の電報を受け取った。近衛とそこにいた面々は皆、条約締結に歓喜の声を挙げた。近衛はすぐにこのことを東条陸軍大臣に電話で知らせた。東条は驚きも、喜びも、怒りの言葉も発しなかったが、(以下略)」

独ソ戦について、ゾルゲは同5月30日、「ベルリンは、ドイツのソ連侵攻が6月後半に始まると、オット(駐日独大使)に通知した。95パーセントの確率で戦争が勃発すると、オットは確信している」と具体的な報告を打電した。その後もゾルゲは警告するが、モスクワはデマ報告リストに入れてしまい、6月22日に独軍の攻撃が始まると、ソ連は大混乱に陥った。

独ソ戦の開始でソ連が心配したのは、日本が戦争を仕掛けてくるか、だった。ドイツは日本の参戦を希望していたが、ゾルゲは意外なことで日本軍が南進することを見抜いた。同8月23日のゾルゲ電にはこうある。

「多くの(日本軍)兵士は半ズボン、すなわち熱帯地方用の短いズボンを支給されており、相当の部隊が南方に派遣されると想定される」

日独の連携を阻止したゾルゲ逮捕

この2カ月後、ゾルゲたちは逮捕された。慌てた在京ソ連大使館軍情報部から、「インソン(ゾルゲのコードネーム)が拘置所でピストル自殺した。これは、尋問中に射殺されたと考えるべきだ」「いや、ゾルゲは生きている。ゾルゲらはソ連のためにスパイ行為をしたとして終身刑を宣告された」などと不確かな報告が乱れ飛んだ。今から80年前の1943年、判決が下り、翌44年11月、ゾルゲは尾崎とともに死刑となった。

ゾルゲ文書にはこのほか、彼が毎月、モスクワに提出していた会計報告で、諜報団の資金不足をモスクワに訴えていたこと、彼がソ連の妻にプレゼントを贈っていたこと、また、諜報団の無線技士が活動に意欲を失い、ゾルゲの原文を適当に削除して、ゾルゲ報告がモスクワには正確に届かなくなっていたことなど、興味深いエピソードも含まれている。さらに、東京にはゾルゲ以外に数人のスパイがおり、女性のスパイが独、米大使館にいたことも明らかになった。

本書の構成は、真ん中に300ページを超えるゾルゲ・ファイルの文面が載っているだけなので、難しく感じる読者もいるだろう。しかし、各文書の注の説明が実に丁寧で、本書訳者の名越健郎・拓殖大学特任教授(元時事通信記者)による前書き解説と、本書の編者で、公開された機密文書を解読したフェシュン・モスクワ国立大学東洋学部准教授のあとがき解説が充実しているので、とても参考になる。

ゾルゲ諜報団の摘発で、日独間の信頼関係が失墜したことにより、「ゾルゲは自らの逮捕によって、日独の連携を阻止し、(両国に挟み撃ちされたかもしれない)ソ連の危機を未然に防いだとみることも出来る」とのフェシュン氏の分析は注目に値する。

ロシアのプーチン大統領が「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」と語ったことがある。ゾルゲはソ連を「侵略国家」ではないと獄中手記で述べているが、自分にあこがれた大統領をどう思っているのだろうか。

『ゾルゲ・ファイル1941-1945赤軍情報本部機密文書』

『ゾルゲ・ファイル1941-1945赤軍情報本部機密文書』

みすず書房
発行日:2022年10月17日
四六判389ページ
価格:7040円(税込み)
ISBN:978-4-622-09514-9

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