
【書評】米陸軍精鋭レインジャー連隊の「戦闘の流儀」:ドン・ベントレー著『シリア・サンクション』
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「マット、無駄なあがきはやめろ。戻ってこい。アインシュタインが動き出した」
発端は、直属の上司であるDIA(国防情報局)の作戦本部長ジェイムズ・ダグラスからの携帯電話だった。主人公のマット・ドレイクは、米陸軍第75レインジャー連隊から5年前にDIAへ移籍してきた腕利きの対テロ特殊作戦要員だが、ある理由でいまは勝手に離職している。
アインシュタインとは、DIAがパキスタン出身の科学者につけたコードネームだった。この危険人物は、パキスタンの支援を受けて開発した核を、これまで世界中の顧客に売りつけていたが、目下のところでは、進行中のシリア危機に乗じて、自分の専門知識をテロ組織に売りこんでいた。
五十万ともいわれる人々の命をすでに吞み込んでいる内戦で、アインシュタインにパンドラの箱を開けさせてはならない。
作戦本部長のジェイムズとマットは、その前に抹殺すべきと主張したが、DIA長官は、アインシュタインをこちら側に寝返らせ、二重スパイにできないかと考えた。その任務を担ったのがマットだったが、相手は勧誘にのってこなかった。ところが、いまになって心変わりしたのか、アインシュタインの方から彼を指名して連絡してきたというのだ。マットは呼び戻された。
アサド政権は化学兵器を使用した
なぜマットは勝手に離職していたのか。彼はシリアでの作戦でトラウマを抱えていた。マットには親友となった相棒フロドがいた。出会ったのは5年前、イラクの砂塵の舞う前線作戦基地にDIAの作戦要員(オペレーター)として派遣されたときだった。フロドは「ボクサーで言えばバンタム級の体格で、物腰柔らかな話し方をする黒人」だった。彼は陸軍の最強特殊部隊デルタフォースから貸し出された狙撃手で、以来、マットの護衛としてコンビを組み、ともに数々の修羅場をくぐり抜けてきた。
ことは3カ月前にさかのぼる。このとき、マットとフロドは、シリアの最大都市アレッポで作戦任務遂行中だった。この地では、アサド政権とIS(イスラム国)とが激しくしのぎを削り、都市はことごとく破壊されていた。そしてあろうことか、アサド政権は化学兵器を使用した。その渦中に何が起こったか。
マットには、ISの情報を提供してくれる善良なアレッポ市民がいた。化学兵器の使用で市中が混乱する最中、彼からSOSが来た。アメリカの情報源になっていたことが露見して、いまにもISの戦闘員に襲撃されそうになっている。危険が迫ったらヘリで急ぎ救助に駆け付ける。それがマットと彼との間の約束だった。
しかし、CIAのシリア支局長は拒否した。化学兵器に汚染された地区にヘリと部下は出せない、と。マットとフロドは、約束を守るべく、レンジローヴァ―を駆って、戦闘地区をくぐり抜け、救助に向かった。そこで――、2人は襲撃された。フロドは瀕死の重傷を負い、片腕と歩行の自由を失った。あとでわかったことだが、情報源とその妻、女の子の赤ん坊は虐殺されていた。このことが心の瑕(きず)となって、マットはDIAを去ると決めたのである。
捕虜になったCIAの準軍事作戦要員
ここで少しマットの経歴について触れておくと、彼は合衆国西部ユタ州の小さな牧場主の息子で、身長183センチ、体重81キロの白人である。陸軍から奨学金をもらい、テキサス大学の予備役将校訓練課程に進み、陸軍に入った。6年前に妻と出会って結婚。しかし、紛争地での転戦続きで、今日にいたっている。
おれは十年以上にわたって槍の切っ先であり続けた。クソほどひどい目に遭ったこともあるし、この終わりの見えない対テロ戦争で失った戦友の数はふた桁を超えそうな勢いだ。
DIA本部でマットを待っていたのは、身体不自由になった親友のフロドだった。彼はともに戦地へ行くことはできないが、後ろ盾となって支援するという。この両雄の活躍が、これから先の物語の展開をグイグイと引っ張っていくことになる。マットはなぜ呼び戻されたのか。
その直前のことだった。CIAのシリア支局はIS分派が新たな化学兵器を開発しているとの情報を得た。功を急ぐCIA長官は、準軍事作戦要員(パラミリタリー・オペレーター)でチームを編成し、研究施設を急襲した。ところが、逆にテロリストに待ち伏せされて作戦は失敗。死傷者が出たうえに、ひとりの若い要員が捕虜となった。開発された化学兵器は従来の方法では探知不可能な化学物質で作られている。テロリストはその兵器をアメリカで使おうとしている。その開発にかかわっていたのがアインシュタインだったのだ。
そのアインシュタインが、化学兵器に関する情報と、CIA要員が囚われている研究施設の位置情報を提供するという。狂気の科学者の狙いは何か。ともかくマットの任務は、アインシュタインと接触し、施設の破壊と捕虜を救出すること。テロリストは、捕虜を斬首するライブ動画を世界に配信するとネット上で宣言している。マットはDIAに復帰することを決意した。トラウマを克服するために。しかし、最大の動機は、彼がレインジャー連隊の出身だったからだ。ここが肝心。それは心に刻まれた連隊の隊是にある。
このあたりで、鬼のDIA作戦本部長ジェイムズが登場する。彼とマットとのやりとりは戦闘員ならではで、ここは私の好きな場面。
ジェイムズは陸軍特殊部隊の軍曹だったが、右眼を奪った携行式ロケット弾の破片に、オペレーターとしてのキャリアにとどめを刺された。そんな彼は型にはまったDIAの背広組と馴れ合おうとはしない。ドアを蹴破り、テロリスト志願者を天国への片道飛行に送り出してきた十八年で身につけた粗野な言葉を吐く。
ジェイムズはマットに命じる。
「とっととシリアに飛んで、やるべきことをやれ(略)あいつが化学兵器と研究所の情報を渡したら、こっちに引き入れろ。渋ったら、頭の中身を搾り取れるだけ搾り取ってから弾丸をぶち込め。シリア行きの機体は三時間後にアンドルー空軍基地を発つ。仕事に取りかかる時間だ」
ジェイムズは強烈なキャラクターとして描かれるが、よい味を出している。物語の最後の場面では、大統領を説得し、ある決断を迫る重要な役目を果たす。思わず拍手喝采である。マットはシリアに飛び立った。
作戦失敗を隠蔽する大統領補佐官
そしてこの作品では、ふたつの物語が並行して進む。マットと並び、重要な登場人物が、合衆国大統領(55歳の若さで当選、2期目を目指す)の懐刀、40代半ばの大統領首席補佐官ピーター・レッドマンである。もうひとりの主人公といってもよい。彼は自分の権力保持のために、大統領の盾になろうとする。
なぜなら、CIAによるシリアの化学兵器研究施設の急襲失敗は、接戦が予想される大統領選の直前に発生した。複数の死傷者を出し、ひとりが捕虜となっている。ことが公になれば、大統領の支持率は急落し、再選がおぼつかなくなるだろう。ピーターは、CIAの失態を隠蔽するため、あらゆる策略をはりめぐらせる。さらに犠牲者を出す可能性の高い捕虜の奪還作戦など論外だった。彼のシリアに対する考え方はこうだ。
シリアの諸問題を解決できるのはシリア人だけ。彼らの問題解決の努力に、合衆国は軍事訓練や武器と情報の提供というかたちで支援にあたるべきだ。それでも、民主主義を長続きさせることができない国に民主主義を輸出するという、毎度毎度の無駄な試みによってアメリカ人の命がひとつたりとも失われてはならない。
マットが再びシリアに到着したときの現況はこうだった。
三カ月前でさえひどかったシリア情勢はさらに悪化していた。ロシアと、それに同調するイランとヒズボラはアサド政権を積極的に支援し、一方サウジアラビアはさまざまなスンニ派抵抗勢力に秘密裏に資金提供している。ひところはイスラム帝国と呼ばれていたISの支配地域は縮小し、生じた空白地帯は複数のテロリスト分派が押し寄せ、またたく間に埋められた。
国家の安全保障をめぐり、大統領府をまきこんだ陰謀が本作のもうひとつの読みどころである。ピーターの奸計は、DIAの作戦をも危うくする。DIA長官に圧力をかけ、マットに帰国命令を出させる。因縁のCIAシリア支局長はあからさまに彼の行動を妨害する。結局のところ、組織的な支援を期待できなくなったマットは、シリアで身動きが取れなくなってしまうのだ。
「レインジャーが道を拓く」
ここまでが本作のお膳立て部分である。あとは読んでのお楽しみであるが、私にとっての最大のハイライトだけ紹介しておこう。孤立無援になったマットに救いの手が伸びた。現地に駐留する、彼の古巣だったレインジャー連隊の面々である。しびれる場面が続く。
男は窓まで身を屈め、訛りの強い英語でひと言だけ発する。
「レインジャーが道を拓く」
「どこまでも」
おれの返答に、笑顔が男の陰気な顔に取って代わる。「ジョンソン戦闘指揮所(COP)へようこそ、ミスター・マット。お待ちしてました」
部隊を率いるフィッツ大佐はマットに聞く。
「(略)これできみの情報と私の戦力が合体した。でも、われわれに与えられたチャンスは一度だけだ。アサド側の戦闘地域に入った途端、地獄の口が開く。だからきみにありていに訊く――きみの資産は本当に情報を持っているんだな?」
「それを確かめる方法はひとつしかありませんよ」
それはどういう方法か。フロドとの最後の交信は泣かせる場面だ。
「おまえのことはよくわかっている(略)おれが何を言おうがやりたいことをやる男だってこともわかってる。だから無知な田舎者のおまえに道理を言ってきかせることはあきらめた。その代わりにこう言わせてくれ――困っていることはないか?」
「正直に言う――いつものように、おれの背中を守ってほしい。わかったか?」
米陸軍第75レインジャー連隊隊是第5条
マットは単身、激戦の地へピンポイントで降り立っていく。フィッツ大佐とのやりとりが、本稿の表題にある肝の部分だ。
「整いました」
「(略)われわれは物言わぬプロフェッショナルの精鋭を自負している。国家のための任務とあらば、ファンファーレも表彰も必要としない。囚われの身の人々を母国に還すこと。戦場から敵を一掃すること。それがわれわれの任務の成功の目安だ。そんなわれわれには、何よりも大切に守り抜いている信念がある――〃倒れた戦友を敵の手に渡してはならない〃」「われわれタスクフォース全員がここに集まっている理由は一つだ――同じ約束の言葉を、私がきみに告げるところを目の当たりにするためだ(略)決してきみをひとりにはしない。助けを求めるきみの声に、われわれは応える。それこそが誓いの言葉だ」
マックは思う。
おれは汚れまみれの窓から外を見た。コマンド―たちは後方のハンガーで気をつけの姿勢で立ち、フィッツ大佐はクマのような手で観閲式にふさわしい敬礼をしている。誰かがこんなことを言っていた――人々が枕を高くして眠ることができるのは、ヤバい連中がその人々になり代わって荒っぽいことをする準備をしているからにすぎない、と。そのヤバい連中の一部と会えて、おれは嬉しい。
ここからヤマ場が続く。満身創痍の戦闘場面は読みごたえ十分。いくつもの窮地を乗り越えて、マックはどう戦い抜いたか。そしてその首尾は――。フィッツ大佐の最終局面での決断こそ、彼らの「戦闘の流儀」であろう。本作の巻頭に記された合衆国陸軍第75レインジャー連隊隊是第5条を引用しておく。
レインジャーに〈降伏〉の二文字はない。倒れた戦友を敵の手に渡してはならない。いかなる状況下にあっても国家の名誉を汚してはならない。
著者のドン・ベントレーは、米陸軍の攻撃ヘリパイロットを経て、除隊後はFBI特別捜査官を務めていたという。デビュー作となる本書は、冒険小説の王道をいく作品である。
「シリア・サンクション」
ドン・ベントレー(著)、黒木章人(訳)
発行:早川書房
文庫版:571ページ
価格:1386円(税込)
発行日:2021年11月25日
ISBN:978-4-15-041489-4