【書評】映画『峠 最後のサムライ』の原作を読む:司馬遼太郎著『峠』
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映画は、1867年10月二条城で徳川慶喜が大政奉還を告げる場面から始まる。次いで、官軍との戦に備え、長岡で西洋式軍事教練を見守る河井継之助(かわいつぎのすけ)と家臣が登場し、やがて、官軍との関係が決裂にいたる慈眼寺(じげんじ)での談判が行われる。映画では、これが前半のおおきなヤマ場となる。
まず、このあたりの場面を原作に即して紹介してみよう。後述するが、継之助は「武装中立」を掲げている。官軍は、宿敵会津藩の討伐を目指し越後長岡の小千谷まで兵を進めていたが、継之助からの和平会談の申し出に、当初、好意的な態度を示していた。著者はこう記す。
長岡藩は小藩に不適当なほどの重装備をし、洋式火力を整備し、一藩戦陣のきびしさをもって領内を鎮(しず)め、会津に属せず官軍に媚びなかったことが、一つの外交上の威力となって逆に官軍に微笑的態度をとらせたことになるのであろう。官軍幹部は、ここで長岡藩にそむかれるよりも長岡藩を抱きこんだほうがよいと思ったにちがいない。
継之助は、添役となるひとりの藩士と河井家の若党を連れ、官軍本営のある小千谷村へ向かった。長岡からはわずか四里の距離となる。
しかし、ことは継之助の思惑通りには運ばなかった。継之助が官軍本営を訪ねるのと前後して、会津藩の越後派遣軍が官軍を急襲した。会津藩は、長岡藩が官軍に降伏するのではないか、あるいは中立を官軍に認めさせるのではないかと疑っていた。会津藩としては長岡藩を味方に引き入れたい。だから会談をつぶすために、あえてその日に奇襲攻撃をかけたのである。官軍の態度は硬化した。
「この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」
1868年5月2日午後、会談場所は本営ではなく慈眼寺という禅宗の古刹に変更された。山門で継之助らを出迎えた官軍の兵士たちは殺気だっている。しばし待たされたのち、官軍先鋒の軍監をつとめる土佐藩士・岩村高俊が薩摩、長州ふたりの下級藩士を引き連れ現れた。岩村自身、齢24でしかない。このとき継之助は、長岡藩を支える押しも押されもせぬ執政家老上席で42歳。著者は岩村についてこう書いている。
土佐の田舎の宿毛(すくも)から出てきて郷党の先輩である坂本竜馬をさがすうち、竜馬が死に、鳥羽伏見ノ役がおこり、うろうろするうちに官軍軍監を命ぜられて越後にやってきたという、いかにも乱世らしい事情からうまれたにわか権力者である。
裃姿の継之助は言った。
「時日をかしていただきとうござります。時日さえかしていただければ、かならず藩論を統一し、かつ一方においては会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師に抗(さから)わぬよう申しきかせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬよう相務めまするでござりましょう」
その申し出を、継之助は嘆願書にしたためてきた。しかし岩村は、「時日をかせ」とは、戦備を整えるための時間稼ぎとみた。これまでも長岡藩は、官軍からの出兵および献金の要請をのらりくらりと先延ばしにしてきたからだ。岩村は居丈高にこう告げた。
「時日をかせ、嘆願書を取次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見(あいまみ)えるだけだ」
午後2時頃に始まった会談はわずか30分ほどで決裂した。しかし、いったんは引き下がったものの、継之助は諦めきれず、再度、嘆願書の取次ぎを頼むべく、最後は自ら官軍の軍門に深夜まで立ち尽くした。結局のところ門前払いをくらい、さしもの継之助は諦め、長岡に引き返していった。著者は記す。
この男は、はじめて背をかえした。やがて闇のなかに溶けて行ったが、それを見送っている官兵たちは、この瞬間からあの凄惨きわまりない北越戦争の幕が切っておとされようとは、むろん実感としてなんの思うところもなかった。
映画は、ここまでの場面を原作通り、忠実に描いている。決して好戦的ではない、戦争を回避しようとする継之助の真摯な努力がみてとれるはずだ。
余談ではあるが、私は映画の試写を見たあとで、慈眼寺を訪ねてみた。その寺は、小千谷のひなびた商店街の表通りから脇道にはいった場所にある。電車で行けばJR上越線小千谷駅で下車、そこからバスで10分ほどだ。お寺の境内には幼稚園が併設されており、のどかな雰囲気が漂っているので、かつてこの地で殺伐とした談判が行われたとはとても思えない。
本堂のなかにある継之助と軍監岩村とが会談した部屋は、当時の様子そのままに保存されており、誰でも入ることができる。想像していたよりも小さく簡素な畳敷きの部屋であった。その場に正座して、たたずむことしばし。是非、訪ねてみてほしい場所だ。
つけ加えれば、JR長岡駅から徒歩圏内に河井継之助記念館がある。直筆の書簡や使用した軍扇などが展示されているのでこちらも必見だ。
「公論を百年の後に俟って玉砕せんのみ」
もう少し、原作を読みすすめてみる。官軍との談判決裂後、継之助は藩主に拝謁し、開戦か否か、判断を仰いだ。
「継之助の思うがごとくせよ」
と、牧野忠恭(ただゆき)は言った。さらに忠恭は言いそえた。
「わがいのちをかばうがために政略の方略を曲げる必要はない。忠恭一個はすでに死んだものと覚悟している」
補足しておけば、6万4000石の長岡藩を治める牧野家は、古くは徳川家康から代々仕えた譜代大名である。同じ譜代の会津、桑名とともに、いずれ徳川家に殉じるしかなかったか。
継之助は、城内に一同を集め、「これ以上は、道がない」と語った。
「むろん、全藩降伏という道はある。しかしながら、わが長岡藩はそれを望まぬ」
「よろしく公論を百年の後に俟(ま)って玉砕せんのみ」
著者は、このときの継之助の胸中をこう記している。
いまこの大変革期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側つき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。
映画はこののち、「奥羽越列藩同盟」に参画した長岡藩と官軍との「北越戦争」を仔細に映像化していくことになる。戦闘場面は迫力十分。長岡藩は、緒戦で要衝となる榎峠や朝日山での戦闘に勝利するが、圧倒的な戦力差で次第に劣勢となっていく。主力の長岡藩で千数百人、それに会津、桑名の加勢が千人ほど。攻め手の官軍は優に万を超える兵力を集めている。
ただし、火力では当面、長岡藩が優位に立っている。長岡藩は、継之助の先見の明で、かつて横浜で知り合ったプロシア出身の貿易商スネルから、ガトリング砲と多数の洋式銃を買い入れていた。著者の記述によれば、この機関砲は当時の日本には3門しかなく、そのうちの2門を押さえていた。継之助はこの砲の操作に習熟しており、映画でも継之助自らがこの機関砲の射手となって官軍と戦う場面が登場する。
が、しかし、善戦むなしく平城の長岡城は陥落し、その後、奇跡的な奪還作戦に成功するが(ここが映画後半の最大のヤマ場)、4日間しかもたなかった。その途中、激しい銃撃戦のなか、官軍の流れ弾が継之助の膝を砕いた。さしもの、継之助は死を覚悟せざるをえなかった。残った長岡藩の軍勢は、会津を目指して落ち延びていった。
官軍は、当初、短期間で長岡藩は降伏すると考えていた。ところが、開戦の火蓋を切ってから、長岡を陥落させるのに3カ月を要した。それはひとえに、軍を指揮した継之助の軍略の巧みさにあっただろう。しかし、長岡の街は焼き払われ、市井の人々もまきこんで双方に多数の死傷者が出たこともまた事実である。
「陽明学とは、人を狂人にする」
映画は、継之助の最期でほぼ終わる。1868年8月16日に死去。享年42。原作は、文庫にして上中下3巻本の長編となり、継之助の波瀾にとんだ生涯を若年期からつぶさに追いかけているが、映画は下巻の中盤あたりからとなる。継之助は、なぜ最後まで官軍に抵抗したのか。それは映画でも伝わってくるのだが、原作に描かれた継之助の歩んできた人生と、彼の人となりを読み込んでいくことで、より理解は深まることになるであろう。
付け加えれば、本作は歴史小説であるだけに、著者は史実に基づきながらも想像力を駆使し、面白味にあふれた物語に仕立てている。継之助の人間味を出すために、お堅い話ばかりではなく、遊郭に通うなど放蕩三昧のユーモラスな姿も随所に描かれているので読みやすい。
原作にしたがって、継之助の来し方に触れておく。越後長岡藩士である河井家は、継之助で五代目となる。1827年1月1日の生まれで長男。父親は藩の勘定奉行を務めてはいたが、家禄百石あまりで、とりたてて藩政のなかで重用されているわけではない。継之助は24歳のときに妻帯するものの、30前後まで書生の境遇でありつづけた。妻「おすが」とやりとりする場面はほほえましい。
若年の頃より継之助は、中国・明の学者である王陽明を信奉していた。著者はこう書いている。
陽明学とは、人を狂人にする。つねに人を行動へと駆りたてる。この思想にあっては、つねに自分の主題を燃やしつづけていなければならない。この人間の世で、自分のいのちをどう使用するか、それを考えるのが陽明学的思考法であり、考えにたどりつけばそれをつねに燃やしつづけ、つねに行動し、世の危難をみれば断固として行動しなければならぬという、つねに電磁性を帯びたおそるべき思想であった。
後年の継之助の芯棒となっていたのが、陽明学であったか。ともあれ、藩政を支えるのは自分しかいない、そのためには何を学ぶべきか、という激しい思いこみから、継之助は26歳のときに単身江戸を目指し、私塾で学ぶ。おりしも、幕府の命で異国船に対抗するため、継之助は江戸藩邸に呼び出され、横浜警備の隊長を命じられる。そこで諸外国の近代兵器に比べ、幕府の無力を痛感する。政体は滅びる、それが継之助の実感であった。しかし、長岡藩は譜代大名である。
譜代大名とは徳川家の番頭なのである。その番頭の家来であるこの継之助が、西国出身の志士どものように、あっさり徳川家を否定するようなことはできない。(それは断固としてできない)というのが、継之助が自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。
1858年、継之助は備中松山藩(岡山県)の陽明学者・山田方谷を訪ねた。山田は、藩財政の危機を救った改革者で、継之助は半年間滞在してその門で学んだ。このときの経験が、のちに継之助が手がけた藩政改革に結びついていく。やがて彼は、藩主の信頼を得て、藩執政にのぼりつめていった。賄賂や賭博を禁じ、封建制度の悪しき慣例を廃していく。庶民の人々の暮らし向きを考えた政(まつりごと)を心掛けた。
福沢諭吉との対話
作中、江戸での福沢諭吉と継之助との対話の場面は興味深い。これは著者の創作であるのだろうが、互いに開明派であることを認め、意気投合しながらも、議論は折り合っていかない。以下に、継之助の立場というものが鮮明に現れている。一部、会話だけ抜粋してみる。福沢が口火を切る。
「まずうかがいたいが、あなたは徳川家中心の立君政治論ですか。それとも京都中心の立君政治論ですか」
「そういう議論に、できるだけ興味をもたぬように自分をいましめています」
「そういう議論に」
「左様、この一天下をどうするかという議論は、他の志士にまかせたい。私には越後長岡藩の家老であることのほうが重く、それがこの河井継之助のすべてなのです。それ以外にこの地上に河井は存在せぬ」
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い以降、事態は風雲急を告げていく。薩長の軍門に下れば、軍備に充実した長岡藩は会津討伐の先鋒の役目を負わされるだろう。同じ譜代の盟藩を敵とすることはできない。心情的には奥羽列藩とともにありたいが、さりとて、官軍に抵抗する東日本の諸藩代表の顔ぶれからすると、
他藩はとうてい頼みにならず、結束などは空中楼閣であり、それを頼みにして自藩の方向をきめればとんでもないことになるであろう。
というのが継之助の考えであった。
新政府につくか、会津藩につくか。というどちらかしかないというのがこの時勢であり、時勢の切迫であったが、しかし継之助はあくまでも中立が存在しうると信じていた。その中立をまもるために、この小藩にすれば過重なほどに新鋭武器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建制度をあらゆる面であらためつつあった。中立はたとえ情勢上不可能であろうとも、日本国でただひとつの例外を、継之助はその全能力をかたむけてつくりあげるつもりであった。
著者は「あとがき」にこう書いている。
私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた。
ここで官軍に降伏する手もあるであろう。降伏すれば藩が保たれ、それによってかれの政治的理想を遂げることができたかもしれない。が、継之助はそれを選ばなかった。ためらいもなく正義を選んだ。
誤解のないように。司馬遼太郎は、河井継之助を美化し礼賛して書いているわけではない。
人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。
と記述しているが、本作は幕末の「最後のサムライ」の生き様を活写したまでである。継之助の決断は、「百年の後の公論」ではどう判断されるだろうか。現代、とくに今の視点で読むと、降伏すべきか、それとも犠牲をいとわず徹底抗戦か、ここは議論の分かれるところであろう。そのことを深く考えさせられる作品である。
「峠」
司馬遼太郎(著)
発行:新潮社
文庫版:上巻511ページ、中巻571ページ、下巻448ページ
価格:上巻880円、中巻935円、下巻781円(税別)
発行日:上中下巻とも2003年10月25日
ISBN:上巻978-4-10-115240-0、中巻978-4‐10-115241-7、下巻978-4-10-115242-4