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【新刊紹介】皇籍離脱の体験談、そして昭和天皇、上皇さまとの思い出:伏見博明著『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』
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皇太子さまの日光疎開に参加
伏見宮家は14世紀の南北朝時代、北朝第3代の崇光(すこう)天皇の皇子を祖とし、天皇家に跡継ぎがいない時には新帝を出したこともあった。特別なつながりから「もう一つの天皇家」とも言われる。
旧伏見宮邸は、ホテルニューオータニ(東京都千代田区紀尾井町)を含む広大な敷地にあった。本書は1932年(昭和7年)生まれの伏見氏が語ったオーラルヒストリーをまとめたものである。
同宮邸の正門から玄関まで、歩いて3、4分はかかった。伏見氏の父が犬好きだったので、大きな犬小屋があり、子犬が産まれれば40~50匹ぐらいいたという。職員が70人ぐらいで、子どもに一人ずつ専属のお手伝いさんが付き、風呂の面倒や添い寝もしてくれた。
戦前の男子皇族は軍人になったので、祖父は海軍元帥。祖母は徳川慶喜(15代将軍)の9女だ。父は伏見氏が6歳の時に亡くなったので、祖父が父親代わりとなった。中学1年の頃(1944年)だが、祖父の部屋には軍艦の大きな絵が貼ってあり、撃沈された軍艦の絵に線を引いて消していくが、大本営発表と違っていた。「おじいちゃんは、日本はもう駄目だな、と言うんです」
2歳年下の皇太子さま(現上皇さま)とは、子どもの頃からよく遊んでいた。1945年3月、皇太子さまの日光疎開に特別参加する。同年8月、終戦の玉音放送を聞いて、「天皇陛下はどうなるのだろう、それが心配でした」。「(皇太子さまは)たぶん、日本が負けた時は、自分も死ぬ運命にあると思っておられたのではないでしょうか」
祖父は重要書類や日記を焼いたという。占領軍側に見つかっていたら、祖父は戦犯として「巣鴨(プリズン)に連れていかれたと思います」。
終戦の翌年に、その祖父が亡くなった。わずか14歳で伏見宮家当主となり、弔問に訪れた昭和天皇をお迎えした。そして、その翌年(1947年)、11宮家が皇籍離脱した。
「(昭和天皇から)これからは平民として頑張るように、というお話でした。この日の前に、おふくろから、今までのような生活はもうできないから、切り替えて、一般の方々と同じような生活をしなきゃ駄目ですよ、と言われた」
不安はなく、「自由になるという気持ちの方が強かった」。しかし、暮らしに困って邸宅などを“売り食い”したり、慣れない商売に失敗したりで、旧皇族が苦労したことも記されている。
戦後も続く皇室とのつながり
皇籍を離れた後も皇室とのつながりは続いた。高校に上がった頃、皇太子さまと泊りがけで宮内庁の牧場に行き、乗馬を楽しんだ。米国留学を決意して昭和天皇に伝えると、「なぜイギリスじゃないの」と問われた。伏見さんは、イギリスには王室があるので自分が特別扱いされてしまうだろうから、米国を選んだことを説明すると、昭和天皇は「それはいい」とおっしゃった。
帰国後、伏見さんは外資系の石油会社に就職する一方、皇室の行事にも参列してきた。
「何かあった時は真っ先に皇室をお守りしなければいけない、という教育を受けてきた」。皇室復帰については、「天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、もう従わなきゃいけないという気持ちはあります」。
だが、こうも語っている。「人は急に宮さまになれと言われて、なれるものではない」。旧皇族だった著者の実に重い言葉である。
中央公論新社
発行日:2022年1月26日
198ページ
価格:2640円(税込み)
ISBN:978-4-12-005495-2