【書評】原作で読む007ジェームズ・ボンド:イアン・フレミング著『カジノ・ロワイヤル』

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滝野 雄作 【Profile】

昨年秋に公開された映画『ノー・タイム・トゥー・ダイ』でダニエル・クレイグ演じる007シリーズは完結となった。ショーン・コネリーに始まる歴代ボンド映画の愛好家は圧倒的に多いと思うが、では、原作を読んだ人となるとどうだろう。3年前に表題作の新訳版が、続いて昨年末には人気作品『ロシアから愛をこめて』が刊行された。ここは是非、活字でボンドの世界を堪能してほしい。

 ダニエル・クレイグによる最初の主演作が『カジノ・ロワイヤル』(2006年公開)だった。同名の原作はイアン・フレミングによるボンドシリーズの第一作であり、発表されたのは米ソ冷戦真っ只中の1953年のことである。

 映画では、時代背景を現代に設定しており、ソ連がとっくに崩壊した今では、敵役はテロリストの資金を運用する謎の悪徳トレーダーということになっているのだが、結末にいたる物語の面白さと深みという点では、熾烈な米ソ対立を舞台にした原作の方にがぜん軍配が上がると思う。

 なぜならそこに、二重スパイという諜報戦の複雑な要素がからみ、独身主義者のジェームズ・ボンドが初めて愛した美女ヴェスパー・リンドとの恋愛の結末は、当時の時代状況であるからこそより感動的で、涙を誘うことになるからだ。

 映画では後半のカジノの場面以降、主要な登場人物と物語の進行は、原作をふまえて作られている。ここは両者を比べて鑑賞することを是非お薦めしたい。それでは原作の読みどころを紹介していこう。

三八口径のコルト・ポリス・ポジティブ

 物語の始まりは、いきなりフランス西海岸の避暑地ロワイヤル・レゾーにある高級カジノの場面である。
 ボンドはジャマイカの輸出入商社の裕福な顧客と名乗っていた。彼は3日間、カジノに通いルーレットに興じる一方で、ル・シッフルという人物をそれとなく監視していた。この男は、バカラを好んだ。

 午前3時を過ぎて、ボンドはホテルの部屋に引き上げた。侵入者がいなかったかどうか、念入りに室内を点検する。

自分は秘密情報部員であり、いまなお生きながらえているのは、ひとえにこの職業につきものの細部にきっちり注意をむけているからにほかならない。

 ボンドは今日70本目のタバコに火をつけると、ここまでのギャンブルの収支を手帳につけた。きっかり300万フラン勝ち、さらにイギリスから活動資金として2000万フランが送られてくる。

眠る前の最後の行動は、右手を枕の下へ押しこめ、銃身を短く切り落とした三八口径のコルト・ポリス・ポジティブのグリップの下へ滑りこませることだった。ついで眠りに落ちると、目にそなわっていたぬくもりやユーモアの光が見えなくなり、そのせいでボンドの顔は、皮肉っぽく残忍、かつ冷酷な仮面、寡黙な仮面に変化した。

ソ連の秘密組織「SMERSH」

 ル・シッフルとは何者なのか。
 第二次大戦後、ドイツから亡命してきたこの人物は、フランス国内で暗躍するソ連の有力な諜報員になっていた。表向きの顔は、アルザス地方の共産党系労働組合の財務責任者であった。年齢は45歳前後で、ギャンブルの達人。常時、武装警備員によって身辺を護られている。

 英国秘密情報部とフランスの情報機関は、ル・シッフルにまつわる興味深い情報をつかんでいた。
 彼は大物スパイだったが、同時にフランス国内の売春組織の経営権を手に入れ、私腹を肥やそうとしていた。買収資金は組合会計からの無断流用であったが、当局の摘発により傘下の売春宿が次々と閉鎖に追い込まれたため、投資した金額を回収することができず、結果、組合会計に5000万フランの穴をあけてしまう。

 しかも都合の悪いことには、国家反逆者やスパイを取り締まるソ連の秘密組織「SMERSH(スメルシュ)」が疑惑を嗅ぎつけ、刺客をフランスに派遣しようとしている。すぐにでも横領した金を返さなければ、悪事が露見してしまい、ただちに処刑されてしまう。窮地に陥ったル・シッフルはギャンブルで穴埋めしようと目論む。

 今夏、ロワイヤルのカジノでは、ヨーロッパ随一の高額ギャンブルがひそかに行われると主催者によって宣伝されていた。一攫千金を狙う大物ギャンブラーが続々とこの地に集まってくる。腕に覚えのあるル・シッフルも、組合に残っていた2500万フランを引き出し、それを元手にバカラ賭博で儲けるため、当地に乗りこんでいたのである。

ボンド・カーはベントレーのクーペ

 その2週間前、ボンドは秘密情報部の責任者Mに呼び出されていた。ソ連を担当するS課の課長の提案は、ル・シッフルをバカラで打ち負かし、破滅に追い込むこと。そのために派遣すべき当方の要員は、カードゲームで腕がたち、武装警備員に太刀打ちできる人物。適任者は「ダブルO(オー)のコードをもつ者のだれか――007号あたりじゃないか」。
 ボンドは戦前、フランスの情報部員ルネ・マティスとともに、モンテカルロのカジノで同様の任務についたことがある。

 Mはボンドに、「宿泊先や列車の手配や希望する装備いっさいについてはQ課に相談したまえ」といい、今回もマティスと協力して任務を遂行するよう命じる。最後に「きみに援護をつけようと思う・・・現地のロワイヤルで向こうからきみに接触するはずだ・・・優秀な人材を送るよ」とつけくわえた。
 優秀な人材、それがS課所属の女性部員ヴェスパー・リンドであった。

 現地入りしたボンドは、滞在している超一流ホテルの地下駐車場から車を走らせカジノに向かう。映画007といえば、ボンド・カーである。むろん原作でも活躍する。その記述はこうだ。

自動車は、ボンドの唯一の趣味だった。排気量四・五リッターでアマースト・ヴィラーズ製のスーパーチャージャーを搭載したベントレーの最後の一台を、一九三三年に新車同然で買ったのち、戦争中は大切に保管しておいた。

戦艦を思わせる青みを帯びたグレイのコンバーティブル・クーペで、ルーフはめったにはずさない。あと五十キロ加速できる余力を残したまま、時速百五十キロで走行する性能をそなえている。

 ちなみに、ボンドの愛車がアストンマーチンになるのは後年の作品からだ。

ヴェスパーは黄昏時

 ヴェスパー・リンドが初めて登場する場面はこんな様子である。
 カジノのバーでボンドは、フランスの情報部員マティスにともなわれたヴェスパーと初めて会う。「女の横顔には皮肉っぽい冷たさ」があるというのが第一印象だったが、「ボンドはリンドの存在を強く意識していた」。

リンドの髪は深い漆黒で、前髪も襟足も刈りそろえていた。髪はその下にある顔を縁どって、くっきりと美しいあごの線をあらわにしていた。

両目の間隔は広く、瞳は深いブルー。臆するようすもなくボンドを見返す目には、皮肉まじりの無関心の光がたたえられ、気がつけばボンドは困ったことに、その光を荒々しく打ち砕きたくてたまらなくなっていた。肌はうっすら日に焼け、化粧っ気はなかったが、ふくよかで官能的な唇だけは例外だった。

 ヴェスパーという名前は、黄昏時を意味するという。イアン・フレミングが描写するヴェスパーはとても魅力的で、胸ときめくものである。ボンドとディナーをともにするときの、黒いビロードのドレス姿は絶品だ。「喉元にはダイヤモンドをあしらった細いネックレス、豊満な胸のふくらみもあらわなV字の深い襟ぐりにはダイヤモンドのクリップがのぞく」とある。

ドライマティーニをシャンパングラスで

 ボンドは、ダブルO(オー)の称号をどのようにして得たのか。ヴェスパーに過去を打ち明ける場面も捨てがたい。
「ダブルOの人たちは、わたしたちにとっては英雄だもの」
 と尋ねるヴェスパーに、
「人殺しに手を染める覚悟さえできれば、ダブルOの資格コードを得るのはむずかしいことじゃない」
 と、ボンドは答える。
「このコードにはそれくらいの意味しかないんだ。とりたてて自慢できることはひとつもない。わたしがダブルOのコードを得たのは、ニューヨークで日本人の暗号解読の専門家を死体にし、ストックホルムでノルウェー人の二重スパイを始末したからだ」

 途中、ボンドが何者かに襲撃されて間一髪危機を脱する場面が挿入されるのだが、彼の身分は最初から敵方に筒抜けとなっていた。情報はどこから漏れていたのか。その興味が読者を最後までひきつけ、ラストでその謎が明らかにされる。

 もうひとり重要な登場人物を紹介しておく。CIAの凄腕工作員フェリックス・ライターである。「いざというときには手ごわく冷徹な戦士になる」元海兵隊員。ボンドと彼とのバーでの出会いは、是非とも紹介しておきたい名場面である。
 ライターは「ヘイグ&ヘイグのオンザロック」を注文するのだが、ボンドはバーテンダーにドライマティーニを「深いシャンパングラスで頼む」と注文する。続けて、

「ゴードンのジンを三オンス、ウォッカを一オンス、キナリレを半オンス。凍りそうなほど冷たくなるまでシェイクし、大きめの薄いレモンピールは香りづけのあとでそのままグラスに入れてくれ」

 ライターも、ボンドとル・シッフルとのバカラ勝負の場に、他の客とまぎれてそれとなく参加する。彼は瀬戸際に追い詰められたボンドを救う役割を演じることになる。

 カジノでの勝負は物語の最大のヤマ場となり、息詰まるほどの緊迫感がある。

 ボンドは筋金いりのギャンブラーだった。カードがシャッフルされるときの乾いた音や、ギャンブル・テーブルをかこんだ物静かな面々が絶え間なく演じている目立たないドラマを愛していた。

 ボンドとル・シッフルとの丁々発止の火花散るやりとりは、バカラのルールを知らない読者でもわかりやすく描かれており、じゅうぶん堪能できる。
 ル・シッフルとの勝負はどのような展開を見せたか。それは本作を読んでのお楽しみとしておこう。

「もう辞めると決めたんだ」

 とはいえ読者には、最終的にボンドが勝利することは容易に想像がつくと思うのだが、イアン・フレミングはそこからさらに目の離せない仕掛けを次々と繰り出してくるのだ。

 首尾よく任務を果たしたものの、ヴェスパーが一味に拉致される。ボンドは愛車ベントレーを駆って追跡するが、あえなく敵方の手中に落ち、全裸にされて拷問を受ける。その手法は残虐きわまりなく、カジノで得た大金(小切手)の在りかを白状しなければヴェスパーは殺される。ル・シッフルの責めと耐え抜くボンドとのやりとりは迫真の描写である。ボンドは生死をさまよう深手を負った。
 この場面は、映画でもきっちり再現されているのでご記憶の方もおられるだろう。男性にとってはとても耐えがたい仕打ちである。この絶体絶命の危機を、ボンドはどうやって切り抜けたのか。SMERSHの影が迫る。ヴェスパーはどうなったのか――。

 いよいよ物語は、大詰めを迎える。

「もう辞めると決めたんだ」
 と、ボンドは盟友マティスに告げる。ここから続く、善悪をめぐるふたりの会話は興味深い。彼らは何のために戦っているのか。

 ボンドはいう。

「若い頃には正邪の区別をつけるのは簡単だ。しかしだんだん年をとるにつれ、区別がむずかしくなる」
「愛国心の問題がつきまとうし、愛国心を引き入れれば完全にすっきり整理できる。しかし、ある国家は善で別の国家は悪だという見方は、いささか時代遅れでもある・・・現代では歴史がめまぐるしく動いて進み、英雄と悪党がいっときもやめずに役割を交替しつづけているんだ」

 マティスはこう反論する。

「しかし、本当にクロまちがいなしの標的が大勢いるのも事実だ。だから、きみの仕事もまだたくさんあるし、きみはその仕事をこなす。きみがいつか恋に落ちて女といい仲になったり、妻子ができて面倒をみなくちゃならなくなれば、仕事はもっと簡単になるだろうね」
「まわりに血肉の通った人間がいるような環境に身をおきたまえよ。ジェームズ。主義主張のために戦うくらいなら、人間のために戦うほうが簡単だぞ」

 ボンドは深く傷ついている。それを癒してくれたのがヴェスパーの存在だった。ボンドは情報部を辞め、彼女と結婚することを決意する。ところが――。

 わたしなら、こうした現実を受け入れることはできないし、とても立ち直れない。しかし、ボンドは甦る。冷徹な冷戦戦士として。「これからはSMERSHを追いつめて狩り立ててやる」。

 あらためて今、読み返してみても極上の娯楽作品である。映画もよかったが、原作の結末にはもっと感動した。

「カジノ・ロワイヤル」

イアン・フレミング(著)、白石朗(訳)
発行:東京創元社
文庫版: 292ページ
価格:833円(税別)
発行日:2019年8月23日
ISBN:978-4-488-13809-7

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    書評家。大阪府出身。慶應義塾大学法学部卒業後、大手出版社に籍を置き、雑誌編集に30年携わる。雑誌連載小説で、松本清張、渡辺淳一、伊集院静、藤田宜永、佐々木譲、楡周平、林真理子などを担当。編集記事で、主に政治外交事件関連の特集記事を長く執筆していた。取材活動を通じて各方面に人脈があり、情報収集のよりよい方策を模索するうち、情報スパイ小説、ノンフィクションに関心が深くなった。

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