【書評】ガンジス河で「キリスト教と日本人」を問う:遠藤周作著『深い河』

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没後25年が経ち、今なお「狐狸庵(こりあん)先生」と親しまれる遠藤周作。生前の本人の希望で、隠れキリシタンを扱った『沈黙』と共に棺の中に納められた本作品は、遠藤文学の集大成となる最後の長編小説である。「日本人のキリスト教」を問い続けた遠藤が、インドの母なる河ガンジスを現地取材しながら、様々な業(ごう)を抱えている日本人を描き、宗教とは何かを考えさせる。

「僕はヨーロッパの基督教を信じているのではない」

物語はそれぞれの苦しみを秘めた人たちが、インドツアーに参加することで進んでいく。主人公の一人が、インド旅行のメンバーとなる病院ボランティアの美津子。もう一人の主人公が、母の影響でクリスチャンとなり、神父を志す大津。

美津子と大津は同じ大学で学生時代をすごした。実は意地悪で人を真剣に愛せない美津子は、大津の信じる神をからかいたくて、彼を誘惑する。大津はキリストを「玉ねぎ」と呼ぶようになり、神を棄てると約束するが、彼女に捨てられた後、フランスに渡り神学生となった。新婚旅行でフランスに来た美津子は、新郎と別行動をとって大津と再会し、神を棄てたのではないかと問い詰める。すると大津はキリストを語りだす。

「あなた(美津子)から棄てられたからこそ――、ぼくは……人間から棄てられたあの人(キリスト)の苦しみが……少しはわかったんです」「ぼくは聞いたんです。おいで、という声を。おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」

 美津子「おかしな人。日本人でしょ、あなたは。日本人のあなたがヨーロッパの基督教を信じるなんて」

大津「ぼくはヨーロッパの基督教を信じているんじゃありません」「三年間、ここに住んで、ぼくはここの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心に合うように作った考え方が……東洋人のぼくには重いんです。仏蘭西人の上級生や先生たちにうち明けると、真理にはヨーロッパも東洋もないって戒められました」「やがて日本に戻ったら……日本人の心にあう基督教を考えたいんです」

大津はその後、異端者と見なされて、インドに移り、ガンジス河近くの修道院に入った。夫と早く離婚した美津子は、大津がインドにいるとの噂を聞き、このインド旅行に参加したのだった。

全てをのみこむ愛の河

こうして日本からの一行が、大河ガンジスの中流にあるヒンズー教と仏教の聖地ベナレス(本書ではヴァーラーナスィと表記)にやってくる。ここには階段状の沐(もく)浴場があり、巡礼者たちが身を清めている一方で、亡くなった人々の火葬場もあり、遺灰が河に流される。生と死が混在した宗教都市になっている。

大津はここの修道院も追い出され、ヒンズー教徒の中に入って、息絶えた人たちを運び、火葬後にガンジス河に流すのを日課としていた。そして、美津子とまた再会する。

信仰の道に進む大津は、「玉ねぎ(キリストのこと)がヨーロッパの基督教だけでなく、ヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも生きておられると思うから、そのような生き方を選んだ」と語る。美津子は「でもあなたは一生を台なしにしたわ」と言う。

一行が現地滞在中にインデラ・ガンジー首相の暗殺事件が起きた。大津は美津子にこう語る。

「(行き倒れの)彼等が、河のほとりで炎に包まれる時、ぼくは玉ねぎにお祈りします。ぼくが手わたすこの人をどうぞ受けとり抱いてくださいと」「ガンジス河を見るたびに、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も、殺されたガンジー首相も同じように拒まず、一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間も、どんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」

美津子もやがて、「あの河だけは、ヒンズー教徒のためだけではなく、すべての人のための深い河という気がしました」と語るようになっていく。

遠藤周作は、こう訴えたかったのではないか。神は大河ガンジスのように、すべてを飲み込んでくれる。だから、他の宗教を排除し、対立してはいけない。キリストが決して唯一、最高の神ではない。日本の八百万(やおよろず)の神々のごとく、数多くの神と共にある存在であるべきだ。これが「日本人のキリスト教」ではないかと。

遠藤周作の転生

本書のもう一つのテーマが、輪廻転生(りんねてんしょう)である。人間をはじめ命あるものが何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わること。晩年に差し掛かっていた著者には興味あるテーマだったに違いない。ただし、クリスチャンの遠藤はイエス・キリストの復活と同じ意味で使っている。別のものに生まれ変わることではなく、他の人の心の中に残るということである。

本書の第1章は、後にインド旅行に参加する磯辺が、妻をがんで失う内容だ。臨終間際に妻が「わたくし、必ず、生まれ変わるから、この世界の何処かに。探して…」と言い残したので、磯辺は日本人の生まれ変わりといわれる少女を探しに行く。その妻が死ぬ間際を末期がん患者のボランティアとして介護したのが美津子で、偶然に磯辺と同じツアーに参加した。

美津子がインド旅行の終わりの方で、亡き妻の生まれ変わりを見つけられなかった磯辺に、「少なくとも奥さまは磯辺さんのなかに、確かに転生していらっしゃいます」と慰めている。また、大津は美津子に「玉ねぎは今、ぼくのなかにも生きている」と語っている。

著者は終わり近くでこう述べる。

玉ねぎは、昔々に亡くなったが、彼は他の人間のなかに転生した。二千年ちかい歳月の後も、今の修道女たちのなかに転生し、大津のなかに転生した。

この物語は、見ていたテレビの画面が突然、消えたようにして終わってしまう。これは、本書の書き出しが「やき芋ォ、やき芋、ほかほかのやき芋ォ。」で始まる意外性と対をなしているのかもしれない。文中でキリストを玉ねぎと呼んだりして、狐狸庵先生のいたずら心も十分に感じられる。難しいテーマの作品を、少しでも楽しんで読んでもらうというサービス精神なのだろう。

筆者(斉藤)は遠藤のインド取材の同行者から話を聞いたことがある。70歳に近い遠藤は体調が万全ではなかったが、暑い中、インドをリアルに体験するため時には安宿に泊まり、またベナレスでは火葬場そばの階段に平然と腰かけ、ガンジス河畔の光景を見つめていたという。

そこで感じたことが、本書の一節にこう記されている。

薔薇色の朝日を全身に受けながらガンジス河の水を口に含み、合掌している裸体の男女が並んでいた。その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジスの河のなかで彼等は浄化せねばならぬ何かを持っている。

遠藤周作は日本人の中に転生(復活)している。

『深い河』

遠藤周作著
講談社文庫(新装版)
文庫判:400ページ
価格:858円(税込み)
発行日:2021年5月14日
ISBN:978-4-06-523448-8

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