【書評】フェミニズム・ユートピア小説の最先端を示す芥川賞受賞作:李琴峰『彼岸花が咲く島』
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地続きの場所として描かれる「島」
『彼岸花が咲く島』は、フェミニスト・ユートピアの正統的系譜を継ぐ傑作である。
いまや世界文学のカノンとなったディストピア小説『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド著)は、発表された1985年当時、その斬新な内容や手法に面食らう読者がけっこういた。1970年代には、<第二波フェミニズム>運動とともに、女性のSF作家がフェミニスト・ユートピア小説を興隆させた後だったから、『侍女の物語』のような「女性のディストピア小説」を登場させた作家アトウッドに、反乱分子を見るような目を向ける人たちもいたのだった。
また、ディストピア小説の主流からもはずれた寓話風の書き方をしていたため、社会風刺小説としての評価も、すぐには定まらなかった。某アメリカ作家などは、「世界観の設定があいまい」とか「支配当局の実態が見えない」とか「こんなことは起きっこない」とか言ったものだった。
しかしのちには、このような作風がディストピア文学の主流になっていく。現実にあちこちの国が右傾化して社会的分断を深め、米国ではトランプ政権が誕生し、イギリスの国民投票で欧州連合(EU)離脱が選ばれる――そういう世界を経験したわたしたちは、もはや「こんなことは起きっこない」とは言えなくなった。
そうして、この系譜を継ぐ作家が男女問わず、多く登場してきた。
李琴峰の『彼岸花が咲く島』も、そうした世界の広い潮流のなかに、その最先端に位置づけられると、わたしは感じている。この作品を、自分たちの住む世界から遠いどこかに島の物語と思うなかれ。ここに描かれる島はわたしたちのいる場所と地続きなのだ。
安らぎと不穏という両義性
舞台は、名前のない亜熱帯の孤島だ。たちまち読み手を引きこむ冒頭場面から、少し引用する。
砂浜に倒れている少女は、炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでもあった。少女は真っ白なワンピースを纏い、長い黒髪が砂浜で扇状に広がっている。ワンピースも髪もずぶ濡れで、黄色い砂がべっとりと吸いつき、眩しい陽射しを照り返して輝き、ところどころ青緑の海藻が絡みついている。<中略>/少女を包みこんでいるのは赤一面に咲き乱れる彼岸花である。砂浜を埋め尽くすほど花盛りの彼岸花は、蜘蛛の足のような毒々しい長い蕊を伸ばし、北向きの強い潮風に吹かれながら揺れている」
「炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでもあった」という両義性は、本作のコアとなるものだろう。安らぎと不穏さ。この島で彼岸花はまさに、薬であり毒である。良薬であり、麻薬でもある。
砂浜に倒れた少女は記憶をなくしており、彼岸花を採りにきた島の娘「游娜(ヨナ)」に見つけられる。海のむこうの「ニライカナイ」から来たから、「霧実(ウミ)」と名づけられるが、名をもらった本人が漢字を覚えられないため、「宇実(ウミ)」という名に落ち着く。游娜は宇実にほんのりとした恋心に似た感情を抱くようになる。
女性たちが治める島
ここは女性が治める島だった。よそ者の宇実は島に留まることは基本的にできない。ところが、「大ノロ」という最高位にある女性長老が、ある条件と引き換えに、島の住人となることを許してくれる。条件とは、女性しか習得できない島の上位言語〈女語〉を学び、島史の継承者「ノロ」になること。彼女は游娜とともにノロを志すことになる。
女性たちの治めるユートピアにも男性はいる。淤娜游娜の友人の少年「拓慈(タツ)」密かに男人禁制の〈女語〉を独学し、島の歴史を知ろうとしているのだが……。
男性が島の統治や歴史から排斥されているのは、なぜか? 島民には伏せられているが、そこには凄惨な過去のできごとが関係している。中国と日本と台湾、そして、感染症パンデミックにまつわる、侵略と迫害と戦いの歴史だ。
少しだけネタバレをすると、「島」の祖先が住んでいたのは、〈ニホン〉という島が集まってできた国で、流行り病で多くの国民が死んだ。この病は国の外から持ちこまれたとわかり、怒り狂ったニホン人は「美しいニッポンを取り戻すための積極的な行動」を起こし、「外人」をすべて追いだし、出ていかない者は皆殺しにしたという。人口は半分ぐらいに減った。
複数の言語に刻印された島の歴史
作中で話される三つの異なる言語の組成が、この過酷な歴史を雄弁に物語っていると同時に、本作のテクストを、他に類を見ないものにしている。
一つめの言語は、游娜が主に使う〈ニホン語〉で、琉球語と中国語を混合したように見える言語だ。二つめは、ノロたちだけが御嶽(うたき)での儀式や歴史の伝承に使う〈女語〉で、現在の日本語とかなり似ている。三つ目は、宇実が島に流れつく前に話していた〈ひのもとことば〉である。中国から来た漢字や和製漢語(漢字熟語)をことごとく排し、やまとことばをベースにしているが、「史実」など、元々それに当たる言葉がない場合は英語に頼り、「ヒストリカル・トゥルース」とカタカナで記す。
これは荒唐無稽な話ではない。現実の日本でも幕末や明治開国のころに、外来の文化である漢字を排しようとする運動はあった。また、いまでも、日本語で言い表せない、言いたくない言葉を英語で言い換える習慣があるのではないか? 「感染爆発」を「オーバーシュート」とか、「利害関係者」を「ステークホルダー」などと。あるいは、なにやら威厳を持たせるために、「アジェンダ」と言ったり、「エビデンス」と言ったり。
作中では、たとえば、游娜が「彼岸花(ビアンバナー)は麻酔効果あり。常に使用ヨー」と言うと、宇実は「ますいこうか」「しよう」の意味がわからない。游娜や大ノロは宇実が使う「ファミリー」「シンパシー」などの語が理解できない。一方、拓慈は〈女語〉がなかなか達者で、「歴史を図案で抽象的に表現する」と熟語を使いこなす。
これらの言語には、人びとの分断と排他と混交の歴史が刻印されているのだ。
ここにもう一つの言語が加わるのが読みどころだ。四つ目の言語は、全知視点の語り手であり作者の李琴峰が地の文で使う流麗な日本語である。それはいま挙げた三言語のどれとも違う。「瑠璃紺の大海原」「砂蔓が恣(ほしいまま)に蔓延(はびこ)っている」などと、外国語由来の言葉を使い、漢字熟語にやまとことばでルビを振り、随所で琉球語を採り入れ、カタカナ語を用いて、それぞれの国の歴史や文化を融通無碍に織りあわせている。作品の最後には、融和の精神がほのめかされているのが、1970年代とは異なる点だ。この島が向かうべきところは、作者の言葉のような和合の境地なのだろう。
世界文学の大きな流れのなかにいる作者に、一考いただきたいことがある。地の文の「声」の提示についてだ。たとえば、「宇実はこのように考えた」「見た」「思った」という心理動詞の後に、宇実には知識や概念がなさそうな(語り手の)言葉がじかに接続されていると、若干戸惑いを覚える箇所があった。
近世から近代に欧州で生まれた小説は、現代へと時代が移るなかで、ナラティヴに内面視点を導入することが多くなった。語り手が登場人物と視界や思考回路や声を共有する書き方である。でも、それとは逆に、語り手の言葉を際やかに差異化する手法もある。作者の言語力があれば、もっと語りの声を浮き彫りにする後者のスタイルで書いても、かっこよく決まる気がする。李琴峰にしか織りあげられない豊潤なテクストになるだろう。
「彼岸花が咲く島」
李琴峰(著)
発行:文藝春秋
A5判:192ページ
価格:1925円(税込み)
発行日:2021年6月25日
ISBN: 978-4163913902