【書評】公安インテリジェンスの核心を描く:手嶋龍一著『鳴かずのカッコウ』

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本作は、著者にして11年ぶりの書き下ろしインテリジェンス小説であり、いよいよ日本の情報機関を、しかも一般的にはその活動が知られていない公安調査庁を題材にした意欲作である。物語は国際港湾都市神戸を舞台に、中国・北朝鮮・米国そして英国の各組織が入り乱れての情報戦が展開される。著者は、日本のインテリジェンスをどう評価し、描いていくのか――。

 紹介の順序が逆になるけれども、最終章のエピローグに、ある重要登場人物の見立てとして、こんな記述がある。
〈二十一世紀のグレートゲームが東アジアの地で幕をあけ、日本が米中角逐の新たな舞台となりつつある。海洋強国、中国が武力で台湾を手中に収めれば、日本列島に吹きつける烈風は一層強まるだろう。〉
 そうしたアジア情勢を踏まえて、その人物はこう危惧する。
〈米中の対立は百年の永きに及ぶ――。そして今世紀の半ばには米中の武力衝突が起きると米国の戦略家たちは警告する。だが・・・彼らほど楽観的にはなれない。台湾海峡を挟んで対峙する米中の戦力差は接近しており、いまなら勝機があるとみて、中国側は武力発動の誘惑に駆られ始めているのではないか。かつて日本の統帥部が真珠湾奇襲に踏み切ったように。〉(筆者注・・・にはその人物名が入っている)

 昨今の米中対立の状況を鑑みると、事態は想像する以上に緊迫している――。インテリジェンスに精通した本作の著者は、登場人物に託す形で平和な国ニッポンに警鐘を鳴らしているのではないか。そうした国際情勢の見立てが、この物語の下敷きになっている。その登場人物とは誰なのか。それは本稿の最後に明らかにするとしよう。

「情報関心」と呼ばれる調査要請

 本作の主人公、梶壮太は神戸公安調査事務所の調査官になって6年になる。
 彼はジョギングすることを日課としているが、桜の季節のある日、「ジェームス山」の丘陵に建つ外国人住宅地を走っている際に気になる看板を目にする。
「建築計画のお知らせ」の建築主の欄に記された「株式会社エバーディール」。この社名は、かつて「要注意対象」として調べたことがある。中朝国境の延辺一帯に拠点を置く、中国系企業がダミーとして使っていた疑いのある会社だった。

 それは壮太がまだ入庁して間もない頃だ。北朝鮮の貨物船がキューバから旧ソ連製の武器を密輸しようとし、パナマで摘発された事件があった。それをきっかけに、霞が関の本庁から神戸公安調査事務所にも、北朝鮮が陰の船主と疑われる貨物船の調査が命じられ、浮上してきたのが神戸に本社のある船舶代理店のエバーディール社である。同社は、北朝鮮産のマツタケを日本に運搬する船の傭船にかかわっていた。

 6年ぶりに同社の名を発見した壮太は、3日前に本庁から送られてきた、部内で「情報関心」と呼ばれる調査要請との関連を疑った。それは全国の調査官に発出されたもので、内容は「中国等による外国勢力の不動産買収の事例を調査し、速やかに報告されたい」というものだった。

 近年、台湾海峡の有事を想定して、政府は日本列島の最南端に陸上自衛隊の部隊配備を進めているが、本拠地である佐世保や離島の駐屯地の周辺で、中国系企業が土地を密かに買収しようとしている。その不穏な動きに神経を尖らせた総理官邸の情報チームが、公安調査庁に各地の実態調査を命じていたのである。

 壮太の報告を受けた直属の上司、「国際テロ班」の首席・柏倉頼之は、モノになるかどうかはわからないが、とりあえず彼にエバーディール社の調査を命じてみる。あの疑惑の会社が不動産事業にも進出していたのか。そこに何か陰謀が隠されているのか。それが物語の発端である。

ひっそりと棲息するカッコウの群れ

 主人公の梶壮太は、インテリジェンス・オフィサーに憧れてこの職業を選んだわけではない。関西の国立大学法学部の出身で、安定志向から公務員を志望し、たまたま給料が他の一般行政職より高かったことから、特にこの職業の特殊性を気に留めるでもなく公安調査庁に就職したのであった。しかし――。
〈初対面の相手に堂々と身分を名乗れず、所属する組織名を記した名刺も切れない――。公安調査官となって何より戸惑ったのはこのことだった。〉
 著者の前2作『ウルトラ・ダラー』と『スギハラ・サバイバル』では、筋金入りのプロの情報員が主人公だったが、本作では、まったくの駆け出しの新人を主人公に据えている。そこにこの物語の妙味がある。

 日本の情報機関の中でも、公安調査庁の活動は一般に馴染みが薄いだろう。同庁は定員約1600人で150億円の予算規模しかなく、「最弱にして最小の情報機関」といわれている。物語を読み進めていくと、主人公の壮太の成長とともに、公安調査官の仕事ぶりが手に取るようにわかってくる。著者の工夫がある。

 公安調査官は、もっぱらオシント(公開情報による情報)とヒューミント(人的情報)によって情報収集する。警備・公安の警察官なら警察手帳を示して話を聞くことができるが、公安調査官は情報源と接触するに当たり、身分を偽装して相手の懐に飛び込んでいく。それでいかに相手の信頼を勝ち得ていくか。
 かくいう壮太の上司・柏倉は、かつて北海道・根室の漁港に偽名で潜入し、北方領土の密漁船から海産物を買い付ける仲買人に扮し、地元に溶け込んでロシア、北朝鮮の情報収集をしていた凄腕である。「効果的なカバー、見破られない身分偽装こそ、公安インテリジェンスの核心」と著者は書く。

 だからこそ、情報機関として小粒ではあるが、公安調査庁ならではの存在意義がある。
 「・・・公安調査官にはヒトもモノもカネも満足にない。いわば三無官庁やな」
 と、柏倉は自虐的に壮太に言うものの、
 「三無官庁ゆえの強みもある。俺たちが苦労して磨いてきた技があるやないか」
 と自負するのである。それは何か。
 「そう、カッコウの技や」
 カッコウは托卵といって他の鳥の巣に卵を産みつけて孵化させ、育ててもらう。托卵とは偽装の技である。
「・・・俺たちは、最小にして最弱のインテリジェンス機関に甘んじてきた。だが、そのおかげで同業者やメディアの関心を惹くこともなかった。深い森にひっそりと棲息するカッコウの群れみたいなもんや」
 彼らは自分たちの手柄を声高に叫ぶこともしない。「俺たちはみな戦後ずっと、鳴かずのカッコウとして生きてきた・・・」

空母「遼寧」として蘇る

 安定志向で就職した壮太は、一見、凡庸で覇気がないように見える。しかし、彼には特技がある。抜群の記憶力と公開情報を丹念に当たる根気と分析力。そしてなにより、人の印象に残りにくい存在感の薄さが、身分を偽装した調査活動にはうってつけだった。6年前のある手痛い失敗から、いまは鍛えられている。

 問題のエバーディール社は、オーナー社長永山洋介の祖父が戦前に興した会社が前身だった。業務は船主と荷主の間を取り持つ仲介業(シップブローカー)で、景気の動向に大きく左右される。なんども浮き沈みを経たのち、1980年代後半、先代の病死で急遽、31歳の若さで社長に就任したのがエンジニアの洋介だった。そのときに社名を現在の名に変更しているが、2008年9月のリーマンショック以降は経営不振にあえいでいた。

 手嶋作品の魅力のひとつは、一般には知られていない情報がふんだんに盛り込まれているところである。いくつか例を挙げてみる。
 永山社長は経営危機を乗り越えるため、自動車専用船の売却を目論んだが、計画がとん挫、さらなる窮地に追い込まれた。〈現役を退いた自動車専用船は必ず「死に船」にする――海運業界にはそんな不文律がある〉という。

 自動車やトラックを運ぶ専用船は、老朽化するとスクラップにされる。中古船として売却すると、たちまち専用船が溢れ、傭船料が値崩れしてしまうからだ。永山社長は、業界の暗黙のルールを破り、老朽船を解体屋に売ったように見せかけ、「生き船」として転売して儲けを出そうとしたのである。

 永山社長に転売話を持ち掛けたのは、バングラディシュのブローカーである。同国のベンガル湾の奥深くにある第二の都市チッタゴンには「巨船の墓場」がある。一帯の浅瀬には、解体を待つ老朽船がゴロゴロしている。潮が引くと、工具を手にした労働者が群がって作業をするが、労働環境は劣悪、船から漏れ出す有害物質で海の環境が著しく汚染されているという。

 経営破綻寸前のエバーディール社に、ウクライナ人の共同経営者が乗り込んできた。この人物は造船技術者だが、来日する直前まで、中国・大連の造船所で中国初の航空母艦「遼寧(りょうねい)」の建造に携わっていた。
 元は旧ソ連がウクライナの造船所で建造していた67500トンの「空母ワリャーグ」であるが、1992年、ソ連の崩壊によって建造工事が中断していた。すでに船体は完成し、推進機関もおよそ8割ができあがっている。その所有権をめぐってウクライナと新生ロシアとの間に紛争が起こった。中国、インドなど新鋭空母を持ちたい新興国が買収に動いたからである。

 ここからの話が興味深い。
「水面下で暗躍したのがノルウェーのシップブローカー」だったという。結果的に、人民解放軍の情報部門のフロント企業「マカオ創律集団旅遊娯楽公司」が大型カジノ船にするという名目で船を買い入れた。黒海からボスポラス海峡を抜け、中国・大連港に曳航されたのは2001年11月のことである。海峡通過をめぐってトルコ政府とひと悶着あったが、中国から年間200万人の観光客を送り込むことで手を打った。

 ウクライナとその会社との売買契約では、軍艦として使用することは禁じられていた。しかし、直後にその会社は登記を抹消してしまう。2005年、大連造船所で空母としての艤装工事が始まった。その際、中国はウクライナの黒海造船所で建造に当たっていた優秀なエンジニアたちを、金にものをいわせて招聘。2012年5月、ついに現役の空母「遼寧」として蘇ったのである。

日本のインテリジェンス機関の弱点

 エバーディール社に乗り込んだウクライナ人を、背後で操っていたのは中国の情報機関なのか。彼らの狙いは何であるのか。柏倉首席を筆頭に、壮太らがチームを組んでの尾行追跡調査が開始される。ウクライナ人と接触する謎の女性が現れ、米国CIAの影もチラついてくる。そこから先は、思いがけない展開が待ち受けているが、それは是非、本書を読んで堪能してほしい。

 そして、最後に真打登場というべきか。複雑なカラクリの謎を解くのは、著者の前2作で活躍した英国情報機関MI6の異能の情報部員スティーブン・ブラッドレーである。本稿の冒頭で紹介した米中衝突の見立ては彼自身によるものだ。

 スティーブンは、日本のインテリジェンス機関の弱点をこう見ている。
〈世界第三の経済大国でありながら、戦後の日本は対外情報組織を持とうとしなかった・・・警備・公安警察や外務・防衛の情報部門はあるものの、インテリジェンス・オフィサーを海外に配していない。加えて彼らは自らの組織への忠誠心が強すぎ、共同のオペレーションを組んでも極秘情報をすぐ上層部にあげてしまう。〉
 その点で、人目を惹かずメディアからも関心を払われていない公安調査庁が、「いつの日か意外に有効な手札として使えるかも知れない」とスティーブンは踏んでいる。これもまた著者自身の見立てであるのだろう。2001年5月、成田空港の入国審査場で、北朝鮮の金正日総書記の長男・金正男の身柄が拘束された。シンガポールから日航機を利用して、偽造パスポートで入国してくるという情報をいち早く掴んでいたのが公安調査庁であったのだ。

 ところで、私が読書案内をすると、どうしてもシリアスな場面に偏りすぎているようだ。とすれば、本作のテイストを伝えるのにはミスリードである。この作品は前作とは趣が異なり、筆の運びは軽快で、全体のトーンは明るくユーモアがある。壮太が淡い恋心を寄せる才色兼備の同僚女性や上品な茶の湯の師匠であるエバーディール社の社長夫人、赤いハイヒールの謎の中国系美女ら魅力あふれる女性陣が物語の進行をおおいに盛り上げる。エンタメ性たっぷりの楽しい作品であることを強調しておきたい。

「鳴かずのカッコウ」

手嶋龍一(著)
発行:小学館
四六版:303ページ
価格:1870円(税込み)
発行日:2021年3月2日
ISBN:978-4-09-386603-3

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