警視庁初代科学捜査官が新著で初めて明かす難事件解決の極秘ファイル
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地下鉄サリン事件でオウムの土谷正実と5時間の対面
服藤恵三さんの近著『警視庁科学捜査官』は、1995年3月に起きた「地下鉄サリン事件」から始まる。警視庁科学捜査研究所(科捜研)の勤務となって14年目のことだ。
営団地下鉄築地駅構内に停車中の車両床面から採取したという液体を捜査員から受け取った。服藤さんは庁舎屋上で資料を抽出し、30分後には「サリン」と特定する。これがサリン検出の最初だが、テレビでは別の毒物がまかれたという誤った情報が流れていた。
「液体を持ってきた捜査員の目に有機リン系中毒特有の症状(縮瞳)があり、『病院に早く行くように』とすぐに帰らせたんです。日本にサリンをまく組織が存在すること、そして、サリンを作れる人間がその中にいるということに驚愕(きょうがく)しました。これは(前年に起きた未解決の)松本サリン事件とつながっているのではと直感的に思いました」と服藤さんは話す。
それから1カ月余後、服藤さんは捜査1課長から「土谷に会ってきてくれませんか。科学の話でもしてきてください」と言われる。オウム真理教の幹部で、「教団の化学者」と言われた土谷正実・元死刑囚(2018年に死刑執行)で、2日前に逮捕されたが、完全黙秘を貫いていた。二人きりで5時間以上話し、これがサリンなど化学兵器や薬物を生成した土谷元死刑囚の自供につながっていく。
「このことは、ずっと自分の中に秘めていて、話したことがなかった」。服藤さんはこう前置きして語り出した。
「土谷は目をつぶって背筋を伸ばし、瞑想(めいそう)しているようでした。その場には、別の捜査員もいたが、全然相手にしないという感じなので、二人きりにしてもらい、彼の大学院時代(理工系)の研究について話をすると、彼は目を開けて、私の方をじっと見るようになりました。そして彼がボソッとしゃべり出したので驚きました」
「大学に残っていたら、君は優秀だったんだから、教授でもなれたんじゃないの」と言うと、土谷は大きく首を振って、「僕なんか駄目ですよ。能力もないし、挫折しかかっていた」と答えた。
一方、「オウムはどうだったの」と聞くと、彼の顔がパッと明るくなって「最高だった。何でも好きな研究をやらせてくれた」と言う。「オウムの話もするんだ」と思って、教団施設の実験室の話を振ってみると、彼は「(教団が)お金はいくらでも出してくれた」。「結果的に彼はオウムに居場所を見つけたんでしょう」と服藤さん。
記録係が入ってきたら、土谷はまた完全黙秘になったので、再び二人だけにしてもらったが、彼は話さなくなってしまった。仕方がないので、服藤さんは白い紙に、サリンの生成工程や、山梨県上九一色村(当時)で押収した実験ノートに記録されていた化学反応式を書いていった。すると彼はそれにじっと視線を向け、びっくりした顔をしながら身を乗り出して見入り、席に座ると天井を見上げた。やがて彼は体を左右に揺すり始め、手が小刻みに震え出した。「動揺しているのが私にも見て取れた」
「ここで私は退室したが、それから2週間後、捜査1課長から『土谷が落ちましたよ』と伝えられた。彼は『警視庁にはすごい人がいて、私(土谷)がやったことなんか、何でも分かっているんだったら黙っていてもしょうがない』と取調官に言って、供述を始めたそうです」
毒物の専門家になることを決意
土谷自供から5日後に、事件の首謀者で教団代表の麻原彰晃(本名・松本智津夫)・元死刑囚(2018年に死刑執行)が逮捕された。服藤さんは事件捜査の最中に、警視庁刑事部長から「今回、君がやってくれたことは大変重要な役割だ。これからの日本警察の捜査に、なくてはならない分野だ。特別捜査官の科学捜査官を作ろうと思うが、こっちの世界に来ないか」と誘われた。こうして翌1996年、服藤さんは同庁初の科学捜査官(捜査1課科学捜査係係長、警部)となった。
「毒物の専門家になろう」。服藤さんは科捜研にいた時からそう決めていた。「日本警察には毒物を検出する技術を持ち、分析する能力を持っている方はたくさんいます。しかし、その薬毒物の体内での作用や代謝まで熟知し分析する人、何かが起きた時、『この方向性で検査しなくてはいけない』と組み立てられる人は少なかったのです」
和歌山カレー事件も解明
科学捜査官となった年に警察法が改正され、都道府県警の管轄を超えて援助の要求ができるようになると、服藤さんの出番が増えていく。その最初が1998年夏、和歌山市で発生した4人死亡、63人が急性ヒ素中毒となった「カレー毒物混入事件」である。
県警科捜研の鑑定では青酸化合物の混入が指摘された。しかし、服藤さんは警察庁からの電話に、現場(夏祭り会場)ですぐに人が死んでいないことから、毒物は青酸化合物とすることに疑問を投げ掛ける。
「(被害者たちは)腹痛や嘔吐(おうと)や下痢が症状の中心で、翌朝に向けて徐々に悪化していることから、ヒ素の毒性によく似ている」と毒物を言い当てた。服藤さんは警察庁の要請で6回、現地入りする。
被疑者(後に死刑確定)宅の下水配管などから、周囲より何百倍も高濃度のヒ素を検出した。「被疑者が所持していたシロアリ駆除の亜ヒ酸と、事件に使われたものが一致している」と服藤さんの推奨した鑑定法(SPring -8)により証明された。
映像から8年前の薬物使用暴行事件に挑む
10人の女性(うち外国人6人)に薬物を用いて乱暴し、2人を死亡させた連続暴行事件の検挙(2000年)にも尽力した。犯人の男(後に無期懲役確定)が所有する複数のマンションなどから大量の薬物と、5000本に達する犯行を記録したビデオテープが押収された。服藤さんはこのビデオ映像から被害女性の皮膚が赤くなっている傷害状況を見つけ、さらに薬物の使用とその薬物を特定した。
「男のマンションで8年前に豪州人女性が体調を崩し入院後に亡くなっていた。男は、『銀座で勤めていた彼女と知り合い、鎌倉に遊びに来たら急に調子が悪くなって、私が病院に連れて行った』などと遺族に説明し、当時は事件にはなっていなかったのです」と服藤さん。
この女性が劇症肝炎で亡くなっていたことから、服藤さんは男が使っていた薬物には肝臓毒性があることに着目し、死亡原因を解明していく。
「(男は)8年前の豪州人女性の時に、こういう薬物を使用したら人は死ぬ可能性があることを体験している。従って、英国人女性を同じように死に至らしめたことには殺人罪が適用できるものと考え、特別捜査本部は捜査を尽くした」
結果的に犯人は無期懲役となった。
科学はうそをつかない
服藤さんは科学捜査官などの経験を経て、「捜査支援」の業務に取り組んだ。犯罪者が次々と新しい技術や前例のない手法を使ってくるのに対抗するため、警察も科学を用いた新たな捜査手法や資材・機材を開発し、活用する必要に迫られていた。服藤さんは科学捜査と犯罪情報分析を融合させた専門部隊の「警視庁犯罪捜査支援室」を立ち上げ、2003年、初代の室長になった。
「科学は多数決ではない。そして、うそをつかない」
服藤さんは近著で繰り返し述べている。多くの難事件に挑戦し、日本警察の科学捜査の道を切り開いたパイオニアならではの名言である。
『警視庁科学捜査官』
服藤 恵三(著)
発行:文藝春秋
四六判 278ページ
価格 1870円(税込み)
発行日:2021年3月25日
ISBN:978-4-16-391344-5
バナー写真:多数の消防車、救急車が集まった地下鉄日比谷線築地駅前(1995年3月20日、東京・中央区) 時事