【書評】香港、台湾の苦闘と歴史-分断への深き視線と思索:阿古智子著『香港 あなたはどこへ向かうのか』

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2019年の逃亡犯引渡条例、20年の国家安全維持法(国安法)の反対闘争を繰り広げた香港の民主派はどうしているのか。国安法で締め付けが強化され香港の自由と民主主義は奪われたのか。世界に公約したはずの「一国二制度」は本当に反故にされてしまったのだろうか―。

研究者のジャーナリズム精神

逃げ惑う若者たちと追う警官隊の激しい攻防戦、タレント扱いされる民主活動家へのインタビュー、中国指導部高官の姿…。テレビ画像だけでは全体像はなかなかつかめない。そうした図式的な理解へのもどかしさは、本書によって現地の人たちの表情や言葉、歴史や社会構造に関する知識が与えられたことで、かなり薄らいだ。それが読後感である。

本書が書かれた昨年以降も事態は進み、「リンゴ日報」創業者の黎智英、若手リーダーの周庭らは再逮捕や有罪判決で獄にある。21年3月の中国人民代表大会では香港立法会から民主派議員を締め出すような制度改正が行われた。まさに香港が中国に呑み込まれてしまうのを、世界は目撃している。書名には「香港」とあるが、同じく中国本土と対峙し、やはり著者と関りの深い台湾の歴史や政治文化も詳しく報告される。

香港とも台湾とも、そして中国とも、日本は深く因縁を背負っており、そこでの自由や民主主義の問題は日本の過去と現在を問うことでもる。本書は一人の研究者が体験と思索をつづったルポルタージュであり、ジャーナリズム精神が生んだ一冊だ。

著者は中国現代史や比較教育学を専門とする東京大大学院教授。中国の農村などをフィールドワークで調査・研究してきた。現地の人々の中に入り込んで研究テーマに関わる真実や本音に迫る、民族学ではポピュラーな「参与観察」である。無論、学術論文と一般著作では表現などに“作法”の違いはあるのだろう。

だが、五感を現場に浸して感得し自分の言葉で叙述する、という著者のスタイルは一貫している。それはもともと自らの生き方に極めて親和的なのだろう。農村の構造的疲弊や農民工の現実を活写した前著「貧者を喰らう国―中国格差社会からの警告―」(新潮社、09年)から既にそうだ。個々の事実の集積から普遍に至る。「社会的帰納法」とでも呼ぶべき手法はメディアに負けていない。

中国返還の懸念が現実に

本書は2019年12月、著者の香港大大学院留学時代(1996~2000年)の友人との再会に始まる。逃亡犯引渡条例の反対運動の激化で道路封鎖や抗議デモによる大混乱がひとまず沈静化した頃だろう。描かれるのは、かつての同窓生、後にSNSで話した友人、新たに知り合った後輩たちの現在とその思いである。ほとんどは心情的に民主派に共感し、デモにも参加している。歩行者にも突然襲いかかる放水や暴力、一般市民への監視や情報収集への恐怖、自由に行動しものが言えない空気…などが語られていく。

だが、民主派の破壊行為を許せず、警察側を支持する人も、他人の動画で自分の気持ちを発信する慎重派もいる。香港で育つ子供の将来への不安、1日150人も増える中国の新移民への警戒感もある。ただ、誰もが「香港人」としての誇りを持ち、「自由」への圧迫が強まることを危惧しつつ、賢く、たくましく生きていた。権威主義的な政治と自由な市民社会の並存が育んだ特別な帰属意識だろう。

現地では世界人権デー絡みのデモ(当局が許可した平和的なもの)に参加し、ともに民主派リーダーで元立法会議員の何俊仁や劉慧卿らと一緒に行進。何はそのひと月ほど前に地下鉄駅で親中派らしき集団に襲われて負傷した大物。劉は1984年、中英共同宣言署名後の会見でサッチャー首相に「香港の500万人以上を共産主義党独裁体制の手に渡すのは道徳的に許されることか」と迫った元ジャーナリストだ。彼女は「あの時の懸念は現実になったでしょう」と険しい表情で言ったという。

著者は初めて黒服・黒覆面姿のデモ隊に囲まれて緊張しつつも、その中学生や大学生にも取材した。著者が操る標準語は警戒されるため、友人が広東語で通訳した。著者は若者たちの純な香港愛や正義感に触れ、混乱は警察側による過度の規制や制圧が招いていることも知る。

分断進む台湾

翌20年1月、著者は台湾にいた。「台湾海峡一九四九」(日本語訳版)で知られる作家、龍應台が主宰する文化基金に招かれて総統選挙と立法院選挙を視察するためだ。ここでも選挙終盤で熱を帯びる対中強硬派の民進党・蔡英文総統と対中融和派の国民党・韓国瑜高雄市長の両陣営の集会を間近に取材した。もともと「一国二制度」は台湾統一のために考えられたアイデアだ。

「今の香港は明日の台湾」ということで、香港の民主派で台湾に渡って民進党を支援する人も多く、蔡総統も香港の民主派支持を鮮明にしていた。台湾では、メディアも学校も全てにわたって政治的な色分けがはっきりしているという。その中で両陣営の若者らはイベントやSNSを駆使して、熱く総統選に関わっている姿が印象的だ。

選挙は民進党の蔡英文が再選された。だが、ネットなどでの中国の影響を防ぐために同党政権が19年末に制定した反浸透法、それ以前からの社会秩序維持法が「言論の自由」を圧迫している実態を著者は見逃さない。「域外敵対勢力」と関係ありとされれば何でも引っ掛けられる広範・曖昧な規定で、政治利用される恐れがあり、市民社会に影を落としている。香港における「国安法」と似ている。国民党時代の締め付けの歴史を引きずった「分断」がなお続いているのだ。

台湾では民進党寄りが「緑」、国民党寄りが「青」に色分けされ、香港では民主派が「黄」、親中派は「青」という分類が行われている。「敵」はいったい何か、「分断」をつくるものは何か、引き戻す手立ては…。著者の憂いは深い。

「気にしていては何もできない」

著作においては著者のたたずまいは重要である。本書では折に触れ自身や家族の来歴、日常が語られる。「日々の生活の一つ一つの小さな問題や悩みと真摯に向き合うことが、民主主義や自由を追求することにつながると考えるからだ」と言う。香港ではデモに加わり、台湾では候補支持者との写真をSNSに上げたりもした。

「政治利用」を恐れる日本の知人らから忠告も来たが、「気にしていては何もできない」「言論統制や人権侵害は台湾や世界の民主主義の脅威だと感じ、そうした自分の思いを表現したくなっていた」と正直に書いている。

日本に脱出した中国の人権派弁護士の母子を一時的に預かったり、国安法による逮捕者釈放の署名活動や、政府に中国・香港政府への圧力を要請したりしたこともその延長線上のことだろう。そういえば、「貧者を喰らう…」の冒頭で「人間が人間を見る目において、完全に『政治性』を排除することなど不可能である。『政治性』というのは、研究者(描く者)と被研究者(描かれる者)の関係である」とつとに宣言していた。

香港 あなたはどこへ向かうのか

阿古智子(著)
発行:出版舎ジグ
四六判:262ページ
価格:1500円(税別)
発行日:2020年8月15日
ISBN978-4-909895-04-2C

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