【書評】「救済の日」は遠くない:下山進著『アルツハイマー征服』

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全世界で約5000万人の患者とその家族が苦しむ「アルツハイマー病」は、がんと並ぶ治療法が未解決の病だ。その治療薬開発のために戦ってきた人や、認知症の患者家族を描いた本書を読み終えると、「救済される日」はそう遠くないと感じられてくる。今まさに「コロナワクチン」が注目されているが、アルツハイマー病でもワクチン開発が試みられ、治験(臨床試験)で深刻な副反応があったため失敗に終わったことなど、着目すべき記述も含まれている。

15年余の取材による力作

出版社の元編集者で、ノンフィクション作家の著者が15年余の取材を経て書き上げた力作だ。国内外で実に多くの人の証言を得て、いかに多数の文献を調べたかが、よくわかる内容になっている。アルツハイマー病は世界的な病だが、読者が本書に親しみを持つのは、日本の製薬会社が治療薬開発に活躍していることと、遺伝性と思われる一族の苦しみや薬の完成にかける悲願が描かれているからだろう。

青森のりんご農家の話から始まる。長身で美男美女が多い家系だが、若年性認知症と思われる人がいた。様子がおかしくなると、一族の者は不吉な思いでささやきあう。「(○○さんは)まきがきたのかもしれない」と。「まき」とは「家系に伝わる病気」を意味するそうだ。

アルツハイマー病は、約100年前にこの病気を発表したドイツの医学者の名前をとって呼ばれるようになった。前述したような遺伝性の患者は全体から見ると少ないが、アルツハイマー病の遺伝子探しに貢献し、病気のメカニズムや治療薬の研究に役立っていく。

最初の薬を作った日本のエーザイ

アルツハイマー病で初めの薬を作ったのは、日本の製薬会社「エーザイ」である。創薬の中心となる杉本八郎さんが1961年に入社したころ、エーザイは特許の切れた他社の薬の類似品(ジェネリック)専門の製薬会社だった。9人の子を育て、認知症となった母は亡くなったが、杉本さんはこの病気で苦しむ人や家族に薬を届けたかった。10年以上かけて送り出した抗認知症薬が臨床試験に入っている頃、研究所の上司を殴って左遷され、7年後にまた研究所に戻ってくる人間ドラマは面白い。

エーザイが開発した「アリセプト」は根本治療薬ではないが、脱落していく神経細胞の信号を活性化させることで、病気の進行を8カ月から1年半食い止める働きをする。アルツハイマー病の唯一の治療薬として、1996年から全世界100か国以上で承認された。ピーク時の売り上げは年間3228億円で、エーザイは一気にグローバル化していく。

失敗に終わったワクチン開発

次の課題は、根本治療薬の開発だ。ワクチン接種でアルツハイマー病が直せると思いついたアメリカの科学者がいた。ごく簡単に言うと、病気の原因とされるタンパク質(アミロイドβ)をワクチンとして注射する考えだ。マウスの実験で成功し、2000年代の初頭、アルツハイマー病は治ると期待された。

しかし、治験で4人の患者が急性髄膜(ずいまく)脳炎を発症した。錯乱を起こし昏睡状態、半身不随、失語症などに陥り、ワクチン開発は中止された。新薬開発に失敗した会社は株価が下落し、他社に買収されて消えた。

一方、日本のエーザイはアリセプトの特許申請が2010年から切れて、他社が安いジェネリックを販売してくるのはわかっていたから、新薬開発に焦っていた。しかし、成果はなく、エーザイの売り上げは急落。他社との連合が、生き残りの必須条件となった。

日米製薬会社の共同で根本治療薬めざす

2000年代に入ると、世界の大手製薬会社は小さな医療ベンチャーなどから有望な新薬の「開発権」を買い取り、大規模な治験を行って新薬を売り出すやり方に変わってきた。米医薬品メーカー「バイオジェン」が、後にアルツハイマー病の根本治療薬の候補となる「アデュカヌマブ」と呼ばれる薬の共同開発権を買い取り、「アリセプト」の実績があるエーザイと2014年に提携して、治験を進める。その頃のエーザイは「総合製薬」の看板を下ろし、認知症とがんの2分野に絞った新薬開発に集中していた。

しかし、治験の結果が思わしくなく、開発は中止と思われた。だが、治験データを計算し直したら、治療上の目標にすべて達しているという、どんでん返しの結果が出る。こうした経緯から、治験データは不完全だと見る専門家もいる。

2019年10月、バイオジェンとエーザイ両社は「アルツハイマー病を対象とした新薬アデュカヌマブの承認申請をする」と発表した。最初の申請はバイオジェンが翌20年7月、FDA(アメリカ食品医薬品局)に行った。「コロナ禍」の中で審査が進められて、近く結論が出る。日本では20年12月、厚労省に承認申請が行われ、エーザイはすでに巨額を投じて承認後の準備をしているという。

本書のエピローグには、研究者や介護者の団体「アルツハイマー病協会」の意見書が紹介されている。

「データが不完全という科学コミュニティの議論はわかります。しかし、治療法のない現在、可能性のある治療法へのアクセスが断たれるということは、何百万人もの患者、その家族、親族、友人たち、地域の人たちにとって、取り返しのつかないことなのです。そうした比較衡量のうえで、我々はこの薬の『承認』を求めます」(要旨)

ワクチンを含めた新薬の開発がいかに難しいか、また重要な治験には、いかに大変な手間と高額の費用がかかるものかを、本書は教えてくれる。1年足らずで開発、治験を経て実用化されている「コロナワクチン」が、新しい医薬品としては極めて例外的に作り上げられたものであることも、よく理解できる。

アルツハイマー征服

下山進(著)
発行:KADOKAWA
四六変型判:330ページ
価格:1800円(税別)
発行日:2021年1月8日
ISBN:978-4-04-109161-6

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