【書評】120万人の孤独な死:大内啓、井上理津子著『医療現場は地獄の戦場だった!』
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本書は、アメリカ・ボストン在住の日本人医師による、新型コロナウイルスとの戦いの記録だ。
アメリカ国内で新型コロナウイルスの感染者が初めて確認されたのは、2020年1月21日。西海岸のシアトル近郊だった。
著者が住む東海岸のマサチューセッツ州でも、その後まもなく中国から帰国した学生の感染が明らかになる。その時には「アジアの話」と”対岸の火事“だったものが、2月下旬には一気に感染が住民に拡大し、状況は一変する。
3月には、ボストン市内の病院の救急部に勤務する著者に、
「研究は一切ストップし、100パーセント臨床に入れ、これまでの倍、働け」
という緊急指令が下された。
そこから、救急(いわゆるER)に運びこまれる新型コロナウイルス感染者と向き合う毎日が始まる。
著者は自分を飾ったり、大きく見せることがない。
新型コロナウイルスに対する恐怖も愚痴も、素直に書かれている。
「感染したくない。死にたくない。妻も子も両親もいる私がこの世から消えるわけにはいかない。一意専心している研究を絶対に途上で終わらせたくない。何もかも恐怖そのものだ」
「朝起きて喉の調子が悪いと、毎回『ついに感染したか』と過剰反応してしまう。とても不安になる」
当たり前だろう。
目の前で急激に悪化していく患者たち。
厳重に防護服を着ているとはいえ、至近距離で同時に複数の感染者と接し、スタッフには急速に院内感染が広がっていく(1カ月で院内スタッフの陽性率は1割を超えたという)環境だ。
怖くないはずがない。
医師としての使命を感じながらも、ときに「貧乏くじを引いた」と嘆いてしまう自分を著者は恥じているが、むしろ医療のプロがこれほど恐怖を感じる新型コロナウイルスが、いかに感染力が強く、治療が難しいものなのかがひしひしと伝わってくる。
日本でも、新型コロナウイルスを機に「エッセンシャル・ワーカー」という言葉がよく使われるようになったが、感染の危険を避けるために自宅で働ける人は決して多くはない。
むしろ、とても“ラッキー”なことなのだと思う。
iPadで別れを告げる孤独な死
この原稿を書いている時点で東京は2度目の緊急事態宣言が延長され、新規感染者数は3桁になったとはいえ、まだまだ終息が見えているとは言い難い。
正直に言うと、今までは、まあ自分はかからないだろうとか、たとえかかっても重症化しないだろう、と何の根拠もなくのんびりと構えていた。
身近に感染した人はいないし……、なんていう甘い気持ちもあった。
でも、その「万が一」がもし自分にやってきたら?
たとえ自分でなくても、家族が感染したら?
新型コロナウイルスの感染の先には、圧倒的な「孤独」が待ち受けている。
日本でも、家族の訪問が禁じられた老人ホームなどでタブレットを活用して交流するケースが多くなっているようだが、このウイルスの恐ろしさのひとつに、「愛する家族がいるのに、直接触れ合えない」があると思う。
著者が看取った80代の男性は、老人ホームで新型コロナウイルスに感染し、救急搬送されてきた。
老人ホームではすでに6週間家族との面会が禁じられており、2週間は電話が壊れていて声も聞けていなかったという。
入院した後も、当然家族との面会はできない。
死期が迫った男性は、病院スタッフが差し出したタブレットに「私の人生の最高の日は、君たち一人ひとりが生まれた日だよ。とても愛しているよ。本当に、とても」と語りかける映像を遺し、ひとりでこの世を去っていった。
どれほど、家族と会いたかっただろう。
別れの瞬間、誰かの手を握っていたかったことだろうか。
そして、死期が近づいていることが明らかだとはいえ、ウイルスと戦い続けている患者にiPadを差し出し、死の宣告を行う医師や看護師たちの葛藤の大きさは――。
世界中ですでに、このウイルスにより120万人以上の命が奪われている。
「感染死120万人は、親しい家族、友人に声をかけてもらえず、最期の言葉を聞いてもらえずに亡くなっていった一人ひとりの死の累計だ」
あとがきに書かれたこの言葉が忘れられない。
借金2600万円からの出発
本書には、新型コロナウイルスのほかに、もうひとつ興味深いテーマがある。
それは、アメリカで日本人が医師になるということだ。
著者は12歳で渡米し、すでに人生の3分の2以上をアメリカで過ごしてきた。
医師の家系に生まれたわけでもなく、超裕福な家庭に育ったわけでもない「普通のジャパニーズ」が、23歳で医師を志し医師資格を取るまでのストーリーは、知らなかった世界が垣間見せてくれる。
たとえば学資ローン。
アメリカでは学生が自分の学費をローンで支払うケースが多いとか、社会問題のひとつになっているなどとよく聞く。
学費が比較的安い公立のメディカル・スクールは、基本的にアメリカ国民の入学が優先されている。そのため著者は、学資ローンに申し込んで私立大学のメディカル・スクールで学ぶのだが、卒業と同時に背負った借金が2600万円、利率は6.7%。
毎月の返済額は約28万円だ。
社会への一歩を踏み出す時に、これはなかなか重たい数字だ。
専門医の資格を取った時には35歳、すでに結婚して子どももいた著者の、月に一度の楽しみは、家族でのチャイナタウンでの外食――ただし頼んでいいのはチャーハンと小籠包のみだったという。
その他にも、アメリカと日本の救急医療体制の違いや(アメリカでは、救急車での「たらい回し」は発生しない)、いわゆる貧困地域のリアルな医療事情(効果がある薬を処方したくても、患者が買えるとは限らない)、医療体制がひっ迫する救急部を困らせる「トンデモ患者」など(「俺はコロナだ!」と息を吹きかけてくる大男!)、著者のフラットな語り口を通して、現在のアメリカの医療現場の様子が伝わってくる。
縦軸にアメリカの医療、横軸に新型コロナウイルスとの対峙。
タペストリーのように、今が浮かび上がる本だ。
医療現場は地獄の戦場だった!
大内啓、井上理津子(著)
発行:ビジネス社
四六判:204ページ
価格:1400円(税別)
発行日:2020年10月21日
ISBN:978-4-8284-2237-4