【書評】「インテリジェンス」とは何かを学ぶために:手嶋龍一著『ウルトラ・ダラー』

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本格的な日本の「インテリジェンス小説」は、この作品が嚆矢となるのではないか。国際情勢が混沌としているとき、国家の命運を左右するのは、優れたインテリジェンス能力である。いまの日本政府は「インテリジェンスという名の武器」をもっているのか。本作を読めば、必ずそこに思いがいたるであろう。

 本作が世に出たのは2006年3月である。それから15年の歳月を経て、昨年暮れ、新たに新装版として文庫本が出版された。あらためて読んでみて、いまこそ読まれるべき作品ではないかと思う。

 本作は、2001年9月11日の同時多発テロ後の国際情勢を背景にしている。超大国アメリカは、国際テロ組織「アルカイダ」を殲滅するためにアフガニスタンに侵攻し、次いでサダム・フセイン率いるイラクを標的にした。「ブッシュのアメリカ」はまっしぐらに「テロとの戦い」に邁進していく。ここに、わが国にとっては落とし穴があった。

 この文庫では、あらたにあとがきとして「十五年目の著者ノート」が書き下ろされている。著者はこう記している。〈われらが東アジアに巨大な力の空白が生じてはいないか――。〉それはどういうことか。
〈軸足を中東に大きく傾かせている間に、もうひとつの戦略正面たる東アジアでは抑止力が大きく殺がれている。その間隙を縫って、北朝鮮は核ミサイルの開発を密かに進め、中国は台湾海峡で制海・制空権を奪うべく周到な布石を打ちつつあった。〉

 北朝鮮と中国は、けっして外から窺がい知ることのできない水面下で、いかなる諜報活動を展開していたのか。著者は独自の情報源を駆使し、本作でその舞台裏を巧みな物語に仕立てている。それは今日の国際情勢につながっているのである。 

 とはいえ、本作は国際政治を題材にしただけの、お堅い読み物ではない。優れたミステリー小説がそうであるように、スピード感溢れる展開にページをめくる手がとまらず、エンタメとして誰もが楽しめる作品に仕上がっている。

「情報部始まって以来の人材」

 物語に入っていく前に、まず主人公のスティーブン・ブラッドレーを紹介しておこう。彼は、BBC(英国放送協会)のラジオ特派員として日本に滞在しているが、もうひとつの顔は英国秘密情報部員である。

 ただし、腕は立つが、上層部にとってはいささか持て余し気味の存在だった。それにはこんな因縁があった。

 情報部の信頼厚い伝説のリクルーターであるオックスフォード大学の老教授は、在校生のスティーブンを「十年に一度の逸材」としてヴォクソール(英国秘密情報部の本拠地)に推挙した。しかし、彼はもちまえの反骨精神から面接の場で英国の外交政策を批判、上層部は「かかる反抗分子を抱えこめば、キム・フィルビー事件の再来を招く」と採用に反対し、「情報部始まって以来の人材」と主張する教授との間にひと悶着があった。妥協案として、「BBCに預けることとする。特命事項で使うもよし、そのままスリーパーとするもよし」ということで、単身、極東の地に赴くことになったのである。

 それでは「インテリジェンス小説」の世界をのぞいてみよう。
 ブラッドレー家は、世界的な浮世絵コレクターとして知られている。その嫡流であるスティーブンもまた、東洋美術に造詣が深く、なかなかの目利きである。

 物語は、彼が京都で開かれた浮世絵のオークションに取材で立ち会っている場面から始まる。おりしも、この日の目玉、東洲斎写楽が描く「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ」の競りが始まるところであった。
〈明るい栗色の髪をやわらかくカールさせたこのイギリス人は、背筋をぴんとのばして両手をひざに置いたまま、浮世絵商たちの肩越しにおしづと対面していた。〉
 ヘーゼル色の瞳は、たちどころにその名品を贋作と見抜いてしまう。

 この「プロローグ」で紹介されたエピソードは、その後の物語の展開を暗示している。本作は、スティーブンが偽造紙幣を追いかけ、その裏に潜む国家間の暗闘を暴いていく物語である。贋作と偽造――、そして、このオークション会場にはさりげなく、富豪のコレクターとして黒幕のひとりが配されている。はたして、スティーブンの携帯電話が点滅した。
〈ダブリンに新種の偽百ドル札「ウルトラ・ダラー」あらわれる。〉
 本国からのメッセージであった。

マカオから大連に運ばれた印刷機

 ここから過去にさかのぼって驚くべき記述が続く。
 1968年4月、東京都荒川区で、腕の立つ若い印刷工が突然失踪した。
 のちに、同じ時期に7名の印刷工が行方不明になっていたことが判明する。彼らに共通するのは、いずれも熟練の腕をもち、大半が地方の出身者で、都内下町の小さな印刷工場で働く独身者であったことだ。著者はこう書いている。
〈失踪当時、東京湾内には国籍不明の工作船が出没していた事実を、在日アメリカ海軍の情報部が確認している。〉

 1988年7月、マサチューセッツ州にある、アメリカ造幣局に紙幣の原料を独占的に供給する名門企業ノートン社の製紙工場から、大量のパルプが何者かによって運び出された。〈綿七十五%、麻二十五%、それに少量の赤と青の繊維を混ぜた、ドル紙幣の原材料だ。この配合こそ「ノートン家の秘密」とされるものだった。〉

 1989年2月、スイスのローザンヌにある〈「紙幣造りのタイクーン」と呼ばれる伝説の印刷機械メーカー〉のファブリ社から、一台の紙幣印刷機が輸出された。〈ドルもマルクも、この紙幣印刷機なくして世に出ることはない。〉最終の仕向け地は「マカオ」と記されていた。ここから先、この印刷機は「電炉用の屑鉄」と偽装され、中国の大連港に運ばれていった。

 1990年12月、デンマークのコペンハーゲンを訪れていた印刷会社の社長が、突然、行方不明になった。美術書など高級美術印刷の分野では、この会社は小ぶりながらも群を抜いた技術力を誇っていた。

 これら不可解な出来事はなにを意味するのか。
 ここに要旨だけ列挙した事件の描写は詳細を極め、貴重な情報が惜しげもなくつめこまれている。どこまでが事実で、どこまでが創作なのか。
 ともあれこの、第一章で記述された「事件の点景」が、のちの陰謀につながっていくのである。

「贋金ハンター」の異名

 ここでスティーブンの相棒となる人物を紹介したい。オックスフォード時代のクラスメートだったアメリカからのローズ奨学生マイケル・コリンズである。
 彼は、卒業後、帰国して財務省のシークレット・サービスの捜査官となる。この組織は〈・・・三千三百人の捜査・警護部隊を擁している。ホワイトハウスにあって大統領の身辺を守るだけでなく、シークレット・サービスは、紙幣の偽造犯罪や新手のハッカー退治、それにクレジット・カード犯罪の捜査にも凄腕を発揮している。〉
 同サービスは、世界の7つの都市に独自の要員を配置している。〈実態はCIAと変わらない〉と著者は記す。
 マイケルは、「贋金ハンター」の異名をとる仕事に没頭していた。そのマイケルに、スティーブンは連絡をとる。そこから偽百ドル紙幣をめぐる二人三脚の捜査が始まる。

 アイルランドのダブリンで発見された「ウルトラ・ダラー」は、IRS(アイルランド共和軍)の武闘派の黒幕と目される人物が、モスクワから持ち込んだものだった。
「これじゃ真札だ。どこにも瑕なんかありやしない」
偽造された「百ドル紙幣」を手にしたイギリスの捜査官は思わず叫んだ。
「これを偽札と決めつける根拠など挙げられない。シリアル・ナンバーを照合した結果、アメリカの造幣局が刷ったドル紙幣じゃないというだけだ」
〈その巧緻を極めた出来栄えから「ウルトラ・ダラー」と呼び慣わされるようになる。〉

 その後、ウルトラ・ダラーは東アジアの主要都市、香港、マカオ、バンコク、プノンペン、ホーチミン・シティー、ペナンで発見される。すでに巨額の偽札が流通しているものと推測された。

これこそが情報士官の責務

 ここで、「インテリジェンス」とは何か、という疑問に触れておきたい。
 著者は、どう考えているのか。物語中に、興味深い会話がある。
 スティーブンが恩師の老教授に問いかける。
「先生、われわれはインテリジェンスという言葉を、情報や諜報という意味でいともたやすく使っていますが、ほんとうは何を意味するのでしょうか」

 恩師は答える。
「あの河原の石ころを見たまえ。いくつ拾い集めたところで石ころは石ころにすぎん。だが、心眼を備えたインテリジェンス・オフィサーがひがな一日眺めていると、やがて石ころは異なる表情をみせ始める。そう、いくつかに特別な意味が宿っていることに気づく・・・知性によって彫琢しぬかれた情報。それこそ、われわれがインテリジェンスと呼ぶものの本質だ」 

 著者はその会話に続けて、こう記述する。
〈雑多な情報のなかからインテリジェンスを選り分けて、国家の舵を握る者に提示してみせる—―これこそが情報士官の責務だ。活きのいいインテリジェンスを受け取った本国の情報分析官は、他のさまざまな情報とつきあわせて、事態の全体像を精緻に描き出し、政治指導部に供する。こうしてインテリジェンスは初めて国際政治の有力な武器たりえるのである。〉
 これこそが本作の核心である。

多彩な登場人物たち

 再び物語の世界に戻る。
 この作品には多彩な登場人物が配され、スティーブンとかかわっていく。それが物語に深みを与え、エンタメとしての魅力をいっそう高めている。
 凄腕の内閣官房副長官として総理や官房長官を補佐し、内閣の外交・安全保障政策を担当する高遠希恵(たかとうきえ)。そして、彼女も一目を置く外務省アジア大洋州局長の瀧澤勲(たきざわいさお)のふたりは、重要な役割を演じている。
 ただし、両者には国家に対する忠誠心という点で、決定的な違いがある。瀧澤は暗い出自を背負っている。それが日本外交にどのような影響を及ぼしていくのか。

 瀧澤は、北朝鮮の謎の実力者と太いパイプをもち、拉致問題等、北朝鮮外交で辣腕をふるう。例えば、著者は2001年5月に実際に起きた事件の舞台裏をさりげなく物語に盛り込んでいる。当時はまだ金正日の後継者のひとりと目されていた金正男(2017年2月にマレーシアで暗殺された)が日本に密入国して身柄を拘束され、しかし、政府は喧々諤々の議論の末、何事もなかったかのように釈放した事件である。
 物語では、官房副長官の高遠は身柄を日本に留め、取り調べることを主張し、瀧澤は今後の北朝鮮外交のカードとすべく早期送還を唱え、首相官邸を丸め込む。この場面は、どこまでが事実であるのか興味深い。

 もうひとり、重要な登場人物がいる。どんなに精巧な偽ドルであっても、ハイテク技術で見破る偽札検知器を開発して躍進した会社「橋浦マシネックス」の本社は、東京・千駄木にある。同社の検知器は、80年代末から90年代初頭にかけて、東南アジア全域に浸透した北朝鮮製の偽ドル「スーパー・ダラー」の摘発に貢献した。叩き上げで成り上がった社長・橋浦雄三は、築いた財で競走馬のオーナーとなり、浮世絵のコレクターとしても知られている。

「北は刷り上げた百ドル紙幣を、偽札検知器を使って品質チェックをしている」
 マイケルから提供された情報をもとに、スティーブンは取材と称して橋浦社長に接触、函館にある技術研究所を訪れる。そこで、函館とサハリンを結ぶ疑惑が浮かび上がってくる。「ウルトラ・ダラー」につながっていくのか。

 ふたりの女性、湯島の私邸でスティーブンの身の回りの世話をするお手伝いの「サキ」と、彼が趣味で稽古に通う篠笛(しのぶえ)の若き師匠にして名演奏者・槙原麻子の存在も物語に彩りを添える。ただし、スティーブンが彼女らとかかわるエピソードの数々は、けっして添え物としてではなく、著者の緻密な計算のもと、物語の本筋と無縁ではない。ことに麻子との関係は、衝撃的なラストシーンへと結びついていくのである。

北朝鮮の核武装

 アメリカの情報機関は、「ウルトラ・ダラー」は北朝鮮の仕業と見抜いている。何のために国家を挙げて偽札造りに手を染めるのか。
 米財務省シークレット・サービスを率いるマイケルのボスは、国家の安全保障に関与する各組織の幹部を集めた会議で、こう言い放つ。
「核弾頭を運ぶ長距離ミサイル。そう、人類を破滅に導きかねない大量破壊兵器を手にする資金に充てようとしている――私はそう確信しています。そして、北朝鮮が手にした核ミサイルの刃は、やがてここワシントンにも向けられることになりましょう」 
 まさに、今日の状況を精緻に言い当てているのではないか。

 この先、いよいよ物語は佳境にはいっていくのであるが、本稿の道案内はここまでだ。次々と極秘作戦の内幕を暴いていくスティーブンの活躍は、是非、本編を読んで楽しんでもらいたい。少しだけ、北朝鮮の背後には、中国の影があり、ミサイルの調達にはロシアから独立したウクライナが関与しているとだけ言っておこう。

 最後になったが、「インテリジェンス小説」とはどういうものであるのか。
 ミステリー小説とは一線を画すもの。著者は、元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏の言葉を「十五年目の著者ノート」で紹介している。
「インテリジェンス小説とは、公開情報や秘密情報を精査、分析して、近未来に起きるであろう出来事を描く小説である」
 過去に起きた事件を題材にして、架空の登場人物を配した「ドキュメンタリー・ノベル」は数多いが、それとは全く別の系譜に属するものであるという。本作で描かれた北朝鮮の核武装の問題などは、まさしくそれに当てはまるだろう。

 そして、英国秘密情報部員スティーブン・ブラッドレーを主人公とする作品には続編がある。今年1月に『スギハラ・サバイバル』が新装版の文庫として出版され、2月には三部作目にあたる書き下ろしの単行本『鳴かずのカッコウ』が上梓される。最新作は、いよいよ日本の情報機関を題材にした意欲作だ。
 著者は、日本のインテリジェンスをどう評価し、描いていくのか。見逃すわけにはいかない。

ウルトラ・ダラー

手嶋龍一(著)
発行:小学館
文庫版:445ページ
価格:850円(税別)
発行日:2020年12月13日
ISBN:978-4-09-406850-4

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