【新刊紹介】江戸の寿司を一変させた酢:車浮代著『天涯の海 酢屋三代の物語』

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斉藤 勝久 【Profile】

いまや世界で食される寿司。江戸時代、その江戸前寿司は新しい酢の登場で生まれた。握り寿司の考案者、華屋与兵衛をも感動させる酢を広めた「酢屋」三代の史実に基づく歴史小説だ。著者は時代小説家で江戸料理文化研究家。

江戸後期、半田村(現在の愛知県半田市)の酒造りの家に婿養子として入った初代、中野又左衛門は、酒粕を使った「粕酢」造りを思いついた。残り物の酒粕は、粕汁や粕漬けなどに使われるが、ほとんどは家畜の餌か畑の肥料となり、それでも余って捨てられていた。

元来、酒屋が一番恐れ、嫌うのは酢だ。丹精込めて造った酒も腐ると酢になる。手当てが遅れると他の酒桶にもうつって、蔵中の酒がすべて酢になり、廃業に追い込まれることさえある。本書の初めの騒動も、酒蔵の大桶の酒に何者かが酢を入れた事件から始まる。

「造り酒屋にご法度の酢造り」を若輩の婿養子が言い出したが、周りから反対された。なんとか説得して、酒蔵から離れた所で酢造りを始める。原材料の酒粕は十分にあり、うまい味の酢が安価でできた。

当時の酢は米から造る「米酢」で高価だったので、市井の人々が気軽に使える調味料ではなかった。格段に安い粕酢は歓迎され、江戸でも売られることになっていく。当時の江戸で食べられていたのは押しずし、箱ずし、巻きずしなどで、握りずしはまだなかった。粕酢の流通で江戸の鮨(すし=当時はこう書いた)は一変する。

二代目は、これまでのものより高級な粕酢を造った。価格は従来のものより6割増しだが、売れに売れた。江戸で人気の寿司職人、華屋与兵衛とも対面し、「10年ほど前だが、新しい粕酢があると勧められて鮨を握ったら、あまりの旨さにたまげた。この酢を使えば、あっしの鮨はますます旨くなると思って、うれしかったですぜ」と感謝される。帰路にペリーの黒船を見かけた幕末のことだ。

三代目は飛躍的に粕酢の売り上げをさらに伸ばし、酒造りからは完全に離れて酢造りに絞った。また、水害に苦しむ地元のため、地域貢献で多くの村人の生活を支えた。

この三代は皆、養子で直系の親子ではないが、酢メーカー「ミツカン」の創業家となっている。

潮出版社
発行日:2020年10月20日
278ページ
価格:1600円(税別)
ISBN:978-4-267-02259-3

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    ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。近著に『占領期日本三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』(幻冬舎新書)。

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