【書評】かくして「グレート・ゲーム」は始まった:ラドヤード・キプリング著『少年キム』

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先ごろ亡くなったスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレが若き日に愛読していた物語がある。それが今回取り上げる『少年キム』だ。作者は英国人として初のノーベル文学賞を受賞したキプリング(1865~1936)で、彼の代表作となる。それでは、19世紀末、英領植民地時代のインドを舞台に、英印混血の少年キムが活躍する冒険譚の世界へ――。

 ジョン・ル・カレは、16歳のときに英国のパブリックスクールからスイスのベルン大学に進んでいる。そこで英国の諜報機関に誘われて、その後の人生が決定づけられた。彼の自伝的エッセイである『地下道の鳩』に、こんな記述がある。
「ベルンがなければ、はたして十代のころイギリスの諜報機関から勧誘されて、業界用語で言う〃ちょっとしたあれこれ〃の使い走りをすることがあっただろうか」
 しかし、そうなるべき素養と読書傾向があったと続けている。
「当時、モームの『アシェンデン』は読んでいなかったが、キプリングの『少年キム』や、G・A・ヘンティらの愛国的冒険小説は、もちろん読んでいた」

 さらに、前回紹介したスパイ小説『コードネーム・ヴェリティ』(エリザベス・ウェイン著)には、こういう場面があった。
 英国陸軍の情報将校が、主人公の女性クイーニーに問いかける。
「単なる遊びではなく、大いなる遊び(グレート・ゲーム)(諜報活動のこと)です!この言葉が使われている本、『少年キム』を読んだことはありますかな?キプリングはお好きですか?」
 のちに情報部員となるクイーニーは、こう答えている。
「もちろん、キプリングは好きですし、著書の『少年キム』も読みました。小さいころに・・・」

 スパイとなるべき人には「必読の書」ということなのか。それでは物語を紹介してみよう。

「緑の野の赤い雄牛」

「肌は日に焼けてこの土地の人々と同じくらい黒く、土地のヒンドゥスターニー語を完璧に話し、一方、母国語の英語は片言で、おぼつかない一本調子、しかも、市場の少年たちと対等につきあっているが、キムは白人だ」
 ここはインド北西部パンジャブ地方の都市ラホールである。

 主人公のキムは、インドに駐在していたアイルランド「マヴェリック」連隊の軍旗護衛下士官だったキンボール・オハラと、ある大佐の家で子守りをしていた女性との間に生まれた。
 その後、妻はコレラにかかって亡くなり、オハラは酒浸りとなって3歳になるキムを連れ、無為徒食の生活を送っていたが、アヘン常習者の女と知り合い、自らもアヘン中毒者となって生涯を閉じることになる。キムは孤児となった。

 オハラはキムに3通の書類を遺していた。フリーメイソンのメンバーであることを記す認定書、同支部が発行した人物証明書、それにキムの洗礼証明書だった。アヘンの女は、それを革製のお守り袋に縫い込み、少年の首にかけてやった。これが、キムが英国人であることの証である。
 オハラは息子に遺言を残していた。いずれ、馬に乗って精鋭部隊を率いる大佐が現れ、「九百のとびきりの悪魔たちが面倒をみてくれる。緑の野の赤い雄牛を神とあおいでいる連中が」。

 キムはいっぱしの悪童になった。白人社会を避け、現地の人々と交わり、このあたりでは「世界の小さい友」というあだ名で通っていた。少年は、
「目立たずしなやかな身のこなしを買われ、ぴかぴかにめかしこんだ上流階級の若者から仕事を請け負い、夜ごと連なった屋根づたいに町を移動する。もちろん、密通のたぐいだ」
 彼にとっては、スリルのある楽しいゲームのようなものである。

 ある日、遠くチベットから訪ねてきたラマ僧の老師と出会う。彼は釈尊が歩いた聖地を旅しており、己の穢れを清め、「輪廻の輪」から逃れることのできる「聖なる川」を探していた。キムは、老師の弟子となって、一緒に旅に出ることにした。少年の目的は、「緑の野の赤い雄牛」を探すことだった。13歳のときである。
 ここから物語は動き出す。

マハブーブの「白馬の血統書」

 途中、キムは隊商宿に立ち寄り、アフガンの馬商人マハブーブ・アリを訪ねる。少年は、10歳の頃から彼の怪しげな仕事の使い走りをして小遣いを稼いでいた。

 マハブーブは、物語で重要な役割を演じる登場人物である。
「パンジャブで一、二を争う馬商人で、金をたっぷり持ち、冒険好きで、隊商をはるか遠くの僻地まで送りこんでいる」実力者だが、英国のインド調査部門の手先であった。彼は、英国統治下のインド政府と反対勢力にまつわる確度の高い情報を、密かに提供している。
 このマハブーブに指令を出しているのが、インドに駐在する情報将校のクレイトン大佐である。

 マハブーブは、老師と一緒に旅をするというキムに、「油布に包んだ薄葉紙」を託し、途中で立ち寄った町で、ある将校にそれを渡してほしいと頼む。キムには「白馬の血統書」と教えたが、実は、インド政府と対立する同盟王国の陰謀を知らせる重要な情報が記されている。
 この頃、北のロシア帝国は、不凍港を手に入れるため、インドに目をつけていた。英国はその動向に神経を尖らせており、インドの各地に現地人のスパイを送りこんでいた。この、英露の諜報戦を、当時、「グレート・ゲーム」と呼んでいた。

 マハブーブの「白馬の血統書」は、背後にロシアの暗躍を示唆するものだった。彼自身、要注意人物として暗殺の対象になっていたことから、老師とその弟子なら怪しまれることはないだろうと踏んで、キムに機密を記した紙を託したというわけである。
 キムは、そこに書かれた内容については知らなかったが、間一髪の危機を脱して、無事、将校に「白馬の血統書」を渡すことができた。その将校が、クレイトン大佐だったのだ。

老師とキムの絆

 本作は1901年に出版された。作者のキプリングは、1865年インドのボンベイ(現ムンバイ)で生まれている。父親は、ボンベイ市内の美術学校で教師を務めていた。1871年、一家は帰国するが、その後もキプリングは度々、インドを訪れている。1907年にノーベル文学賞を受賞。彼の著作『ジャングル・ブック』を読まれた方もいるのではないか。

 本稿では、スパイ小説としての物語に焦点を当てて紹介しているが、本作はいく通りもの読み方ができる。インド紀行として、この作品は秀逸だ。ふたりが旅する先々のエキゾチックな風景や複雑な身分制度、錯綜する民族と宗教、そこには多彩なインドの実相がきめ細やかに描かれている。物語の後半、ふたりが雪深い北部山岳地帯の聖地を訪ねる様は、圧巻である。
 旅を続けていくうちに、目的こそ違え、老師とキムの絆は深まっていく。それもまた、本作の読みどころのひとつである。

 老師とキムとの、「聖なる川」を探求する旅は続く。物語前半のハイライトは、草原で英国の大部隊に出くわす場面だ。先遣隊が野営地に隊旗を立てているが、そこには「緑の野に赤い雄牛」の図柄、まさしくアイルランド「マヴェリック」連隊を示すものだった。
 夜、こっそり野営地を覗いていたキムは囚われの身となる。だが、少年を助けたのが、肌身離さずもっていた父オハラが遺した3通の書類である。英国人であることが証明され、ここから、キムの人生は大きく変転していくのである。

 キムは、老師の助言を受け入れ、ラホールの聖ザビエル校で英国人としての教育を受けることになった。そこには、クレイトン大佐とマハブーブ・アリの思惑がある。

ゲームにむいた仔馬

 老師と離れてから3年の歳月が流れ、キムは16歳になった。
 ここで、謎の人物が登場する。表向き宝石・古物商を営むラーガンだが、クレイトン大佐の協力者であり、キムにスパイとして必要な技術を叩きこむ。

 キムは、英語と現地語を巧みに操れ、行動力に優れている。しかし、クレイトン大佐は、「グレート・ゲーム」に加えるには、まだ若すぎると首をたてにふらない。マハブーブは、
「大佐どの、あの仔馬ほどゲームにむいた馬は千年に一度しか生まれませんよ。おれたちには働き手が必要なんですから」
 と、反論する。ロシアとの諜報戦は熾烈を極め、英国側のスパイには死者も出ている。ラーガンの一言が決め手になった。
「大佐は、あの子を試してみるためにわたしのところへ送られた。あらゆる方法で試しましたよ・・・つまりあの子にはじゅうぶんな力があるということだ」
 かくしてキムは、英国のスパイとなった。

 窮屈な学校生活から解放されたキムは、クレイトン大佐の計らいで老師と再会する。マハブーブからは、護身用に真珠色のニッケルメッキをほどこした口径0.45インチの拳銃を贈られた。
 老師とキムは、再び旅に出た。彼らには、つかず離れず、大佐が雇っているベンガル人の熟練諜報員ハリィ・バブーが付き添っている。老師にとっては「聖なる川」を探す修行だが、キムは危険な密命を帯びている。それは何であるのか。これが物語の核心部分である。

 キムの「グレート・ゲーム」は始まった。もうひとつの興味、老師が探し求めた「聖なる川」は見つかるのか。その結末は魂を揺さぶるものである。
 物語を紹介できるのはここまでだ。未知の世界への好奇心と、そこへ踏み出す勇気と行動力がある者にこそ、前途は開けてくる。そのことをキムと老師の旅が教えてくれるだろう。
 そしてまた、この物語は100年以上前に編まれたものだが、いささかも古びていない。米、中、露による新たなグレート・ゲームが始まっている今日、是非、読んでおくべき価値のある作品である。

「少年キム」

ラドヤード・キプリング(著)、三辺律子(訳)
発行:岩波書店
岩波少年文庫:上巻309ページ、下巻302ページ
価格:上巻760円、下巻720円(税別)
発行日:上巻2015年11月17日、下巻同
ISBN:上巻978-4-00-114615-8、下巻978-4-00-114616-5

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