生誕100年・原節子を巡る神話と真実:小津映画に不満、生涯の「代表作」を求め続けて

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板倉 君枝(ニッポンドットコム) 【Profile】

半世紀以上にもわたる隠遁(いんとん)生活の後、2015年に95歳でひっそりと世を去った伝説的女優、原節子。評伝『原節子の真実』(新潮社)を読むと、小津安二郎監督の映画で定着したイメージとは異なる実像が浮かび上がる。生誕100年を機に、著者の石井妙子さんに話を聞いた。

石井 妙子 ISHII Taeko

ノンフィクション作家。1969年生まれ。白百合女子大学卒、同大学院修士課程修了。女性の一代記を数多く手がける。綿密な取材に基づき、一世を風靡(ふうび)した銀座マダムの生涯を浮き彫りにした『おそめ』(新潮文庫)で高い評価を受ける。主な著書に『日本の血脈』(文春文庫)、『満映とわたし』(共著・文芸春秋)など。2016年『原節子の真実』(新潮社)で第15回新潮ドキュメント賞。

小津が黒澤に抱いた対抗意識

原節子が女優として輝くのは、25歳で終戦を迎えてからだ。何人もの名匠たちが彼女の魅力を最大限に引き出そうとした。その中でも黒澤明と小津安二郎のアプローチは対照的だった。

「戦後、GHQは民主主義啓発映画の制作を奨励しました。当時頭角を現していた黒澤は、節子をハリウッド映画のような骨太の作品で生かしたいと考え、『わが青春に悔いなし』(1946年)の主演に迎えました。それまでの日本映画では描かれたことがない、反骨精神を持ち運命に立ち向かうヒロインを演じさせて反響を呼び、GHQも喜びました。ところが、再び節子を起用し、ドストエフスキー原作の舞台を北海道に移して撮った『白痴』(51年)は、評価も興行成績も散々な失敗作に終わったのです」

「一方の小津は、女優にとって普通の家庭の女性を演じることが一番難しく、それができるのが原節子だと明言し、婚期を逃し父親の世話を焼く娘、紀子役に節子を迎えた『晩春』で絶賛されました」。小津は節子起用にこだわり続け、「紀子3部作」―『晩春』(49年)、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)―は世界的な評価を得ることになる。「小津の日記を読むと、黒澤に対して辛口で、『白痴』も脚本段階から辛辣(しんらつ)に批判しています。対抗意識があったのでしょう。自分の方が先輩ですが、過酷な戦争体験を経て復帰すると、兵役を免れた後輩の黒澤の方が注目され、もう小津は“終わった”といわれていたのですから」

小津は節子を使って見事に復活し、『白痴』の黒澤は“惨敗”した。以後、黒澤が再び節子を起用することはなかった。実は黒澤は『白痴』の前に『羅生門』(50年)で節子の起用を望んだが、節子の義兄、熊谷が節子には向かないと反対して実現しなかった。主演に京マチ子三船敏郎を迎えた同作は、ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。

「節子自身は小津より黒沢の作風に引かれていたはずです。実際、『晩春』の紀子の人物像に共感できず、『この映画の娘の性格は私としては決して好きではありません』などと語っています。節子は日本映画より洋画が好きで、欧米の自我の強いヒロインに共感を覚えていました。特にイングリッド・バーグマンに憧れて、演技の参考にしていました。10代での洋行以来、節子はずっと映画界においては西洋の価値観を追いかけていたのではないでしょうか。もう1本、黒澤が原節子の映画を撮って成功していれば、彼女の人生も変わっていたかもしれません」

節子の人生を左右した義兄・熊谷久虎

熊谷は節子に功罪相半ばする影響を与えたと石井さんは言う。「戦前は鬼才と呼ばれ、骨太の独特な作風で評価を得た人です。節子に読書を奨励する一方で、女優は地に足をつけた生き方をしなければと、しっかりと家事をこなすように義妹を教育しました。熊谷がいたからこそ地道な生き方を貫き、スキャンダルなどから守られた面もある一方で、男性との交際や出演作に干渉されました」

敗戦後、映画界は熊谷を戦争協力者としてGHQに告発し、実質的に業界から追放した。「戦時中、ほとんどの監督が戦意高揚映画を撮っていたのに、義兄だけに責任を負わせた映画界を許せない―節子はそんな気持ちでした。義兄を映画監督として再起させたいという思いが強すぎて、他の監督のオファーを断ったりもしたのです」

ことあるごとに「意志の強い女性を演じたい」と語ってきた節子だが、30代を迎えてから、細川ガラシャ夫人を演じたい、熊谷に演出してほしいとインタビューなどで何度も口にするようになった。「明智光秀の娘で、気性が激しく、信仰を貫き最後には自決するガラシャに強い自我を感じたのでしょう。最後までこだわり続けましたが、実現しませんでした」

「原節子」を守りきった「会田昌江」

若き日の秘められた恋もあったが、節子は自分の心情を決して公にしなかった。独身を貫く彼女を巡り、マスコミは「結婚する気はないのか」と執拗(しつよう)に問い続けた。小津監督との純愛や義兄との恋愛関係のうわさはもとより、「マッカーサーの愛人」などのデマが流布したこともある。一方、30歳前後から健康問題を抱えていた節子は、年を経るにつれ、若さと美しさだけが求められる女優の在り方、若い観客向けの企画にばかり力を入れる映画界への失望を募らせていく。40代になって静かに表舞台から退くのは自然な流れだったと石井さんはいう。

晩年には隣近所でもその姿を見かける人はいなかった。「若い頃には引退したら好きなだけ海外旅行に行きたいと語っていた節子ですが、国内外を問わず旅行には一切行かなかったそうです。晩年は外食さえしなかった。ひたすら本や新聞を読んでいたそうです。本当に意志の強い人です。『会田昌江』に戻って原節子を葬り去りましたが、最後まで原節子として生きたとも言えるかもしれません。極力人目に触れずに、原節子の美しいイメージを守り切ったのですから」

バナー写真:亡くなった原節子さんを偲び、映画館に設置された献花台=2015年11月26日、東京都中央区の東劇(時事)

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出版社、新聞社勤務を経て、現在はニッポンドットコム編集部スタッフライター/エディター。

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