【書評】世界で最も難しい言語か:小川誉子美著『蚕と戦争と日本語――欧米の日本理解はこうして始まった』
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日本語に挑んだ西洋人の歴史
欧米諸国は国益や外交戦略と日本語を学習、研究することをどう結び付けてきたのか。本書はその歴史を8章にわたって詳述している。
そこでは「日本語に挑戦する人々の冒険ドラマ」が繰り広げられる。半面、「外国人が日本人に日本語を学ぶこと、日本人が外国人に日本語を教えることは命がけ」だった時代も活写されている。
「外国語の学習と言えば、現代は友好的で平和的なイメージをまとうことが多い。ところが、歴史を紐解くと、対立や征服、戦争といった国家間の交渉や紛争と連動して行われた例が多々見られる」
日本側が重視した西洋の外国語はポルトガル語から始まり、オランダ語、英語へと変遷していく。これに対し、西洋側は交易や外交交渉、ひいては戦争で自国に有利になるよう日本語専門家を育ててきた。本書は言語を介した「日本と西洋との交流史」でもある。
大航海時代に宣教師らが来日
日本が欧州と邂逅するのは16世紀半ば、大航海時代である。ポルトガル船、スペイン船が相次いで来航し、南蛮貿易という形で日本と欧州諸国との行き来が始まった。
当時、欧州では宗教改革を経て、ローマ・カトリック教会がイエズス会を創設、海外に宣教師を派遣して布教活動を展開した。日本にはスペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエルが1549年に渡来、鹿児島に上陸したことはよく知られている。
ザビエルが日本行きを決意したのは、東南アジアのマラッカで鹿児島生まれの日本人アンジロウ(ヤジロウとも)と出会ったからだといわれる。アンジロウは若いころに人を殺め、鹿児島に来航したポルトガル船でマラッカに逃れたことから、かなりのポルトガル語を話せるようになっていた。アンジロウはインドのゴアで洗礼を受け、日本人で初めてキリスト教徒になった人物といわれている。
「ザビエルの目的は、キリスト教日本開教のために、支配者から布教の許可を得ること、そして、教義書の日本語訳を作成することであった。そのいずれにも日本語力は不可欠であり、この『日本語のできる人間』の養成こそ、喫緊の課題であった」
「困難で迷宮のような言葉」習得
ザビエルが来日した際、一緒に鹿児島に戻ったアンジロウは通訳を務めた。スペイン出身の宣教師ジョアン・フェルナンデスもザビエルに同行して入国し、寝食を忘れるほど日本語を勉強した。彼はアンジロウから通訳を引き継ぎ、ザビエル離日後も日本に残って日本語の文法書『日本文典』や『ポルトガル語・日本語語彙集』を作成した。
フェルナンデスの教え子であるポルトガル出身の宣教師ルイス・フロイスはザビエル、アンジロウとも面識があり、1563年に31歳で戦国時代の日本にやってきた。織田信長と親交を結び、豊臣秀吉にも会見した。文才に恵まれ、大作『日本史』を著したことでも有名だ。
やはりポルトガル出身のジョアン・ロドリゲスは1577年に16歳で来日、イエズス会に入会し、宣教師になった日本語通だ。日本語研究の集大成『日本語大文典』などの著作を残した。彼は「豊臣秀吉の知遇を得たことでイエズス会の会計責任者となり、徳川家康の通商代理として生糸貿易にも関わっている」
16~17世紀の日本で宣教師たちは「はなはだ困難で迷宮のような言葉」を必死で学んだ。その結果、日本の支配階級とも日本語でやりとりできるレベルまで到達したのである。
帝政ロシアは漂着民を教師に
大国ロシアにおける日本語の研究の歴史は古い。本書によると、18世紀のロシアでは、鎖国していた江戸時代の日本からの漂着民が日本語を教え、ロシア人と共同で教科書や辞書を作成した。1705年以降、ペテルブルクやイルクーツクに日本語学校が開設され、110年にわたって「断続的に日本語教育が行われた」という。
「ロシアで初めての日本語教師となったのは、一六九六年に大坂から江戸に向かう途中に遭難しカムチャツカの地に漂着したデンベイであった」。ロシア帝国のピョートル大帝は1702年、首都モスクワに送られてきたデンベイと接見した。日本語学校は「大帝の命」により開設された。デンベイはロシアで「陸軍軍曹に相当する地位」を与えられ、ロシア正教に改宗した。
漂着民としてロシアに10年滞留する「数奇な体験」をして、生還を果たした日本人もいる。井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』のモデルとなった大黒屋光太夫である。伊勢国(現三重県)の商家に生まれた船頭、光太夫とその一行は1782年、江戸に向かう途中遭難し、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。光太夫は1791年、当時の首都ペテルブルクで女帝エカチェリーナ二世に謁見して帰国を嘆願、翌年、遣日使節団のアダム・ラクスマン団長に伴われて帰国した。
日本の養蚕技術が欧州を救う
ポルトガルとスペインに加え、17世紀の初頭にはオランダやイギリスも日本との交易に参入する。1639年、江戸幕府の「鎖国」体制が完成すると、「日本人の西洋語の理解もオランダ語に絞られていった」。鎖国時代の約200年間、オランダ商館のある長崎の出島が唯一、西洋に開かれた窓口だった。
オランダが対日貿易を独占したこの時代、オランダ語は「貿易とともに西洋の学術を移入するために重用された」。本書には「出島の三学者」と呼ばれたドイツ人医師、フィリップ・フォン・シーボルトの波乱に富んだ人生ドラマも綴られており、読み応えがある。
19世紀半ば、本書の表題に出てくる“蚕”が日欧間の交流の主役になった。「フランス・イタリアとヨコハマをつなぐ『シルクロード』をヨーロッパの養蚕業者が盛んに行き来した時代である」
「十九世紀中頃にヨーロッパでは当時不治の病と言われた蚕の伝染病、微粒子病が蔓延し、ヨーロッパ種は絶滅の危機にさらされていた。その打開策として、日本の養蚕業が注目され、技術翻訳書第一号とも言うべき日本の養蚕教育書がフランス語やイタリア語に翻訳された。ヨーロッパの人々は、日本の養蚕書で得た知識をもとに、日本の伝統的な方法で日本産蚕を育て、養蚕業の危機を救ったのである」
1848年にフランス語の翻訳版が出た養蚕書は、上垣守国著『養蚕秘録』(1803年)。その原本は「ドイツ人医師のシーボルトが、長崎からオランダ本国に持ち帰った膨大な日本コレクションに紛れ込んでいた」。訳者はヨーロッパ随一の日本学者として知られていたオランダ・ライデン大学のヨハン・ヨゼフ・ホフマン教授だった。
開国と日本語を操る欧米の人材
日本の開国の前夜から、欧米列強は日本語ができる人材を精力的に養成した。彼らは日本語を駆使して対日交渉を支えた。幕末から明治への近代化の時代、日本の外交言語はオランダ語から英語へと変わっていく。緒方洪庵に蘭学を学んでいた福沢諭吉も「英学発心」とばかり、独学で英語を習得し、欧米を視察した。
1854年、日米和親条約を締結したアメリカ東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督は横浜沖に停泊しながら、こう思いを巡らせていたという。
「日本国内の法律や規則について、信頼できる充分な資料を集めるには長い時間がかかる。領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならない。それなりの成果をあげるには、諜報員にまず日本語を学ばせなければならない」(『ペリー提督日本遠征日記』木原悦子訳)
開港後まもない1859年、アメリカから6人の宣教師が日本に送られてきた。その一人が通称ヘボン、当時44歳のカーティス・ヘップバーンである。ヘボン式ローマ字表記法の考案者として知られる。
ヘボンは「伝道を目的に来日し、医療活動を行いながら私塾であるヘボン塾を開設し、和訳聖書や『和英語林集成』を上梓し、四〇年に及ぶ年月を日本で過ごした」。ヘボン塾の最初の生徒は林董(当時13歳)で外相になった。後に蔵相、首相を歴任する高橋是清も塾生だった。
イギリスも1854年、日英和親条約を締結するが、交渉言語はオランダ語ではなく、英語とするよう「恐喝的、かつ、強引な態度で迫った」という。イギリスはその一方で、多くの通訳者や日本専門家を日本に送り込んだ。
その代表格は1865年に19歳でイギリス公使館日本語通訳生として来日したアーネスト・サトウだ。日本語を操る外交官として「幕末の志士、西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文、勝海舟らと関わり、情報を収集し、影響力を持つことができた」という。
日露戦争を機に欧州で日本語熱
19世紀末から20世紀初めにかけて世界は帝国主義時代を迎える。日本は1902年に日英同盟を結び、日露戦争(1904-05年)に勝利、第一次世界大戦(1914-18年)でも戦勝国側に回った。本書では戦争がもたらす欧米の対日観の変化や日本研究、日本語学習の実態についても考察している。
イギリスでは日英同盟締結後、ロンドン大学やオクスフォード大学での日本語講座開設、貿易商が出資した日本語学校の開校、日本語教科書の出版などが相次いだ。
日露戦争後はリトアニア、ブルガリア、ポーランド、オーストリア=ハンガリー帝国などで日本語熱が高まった。1930年代からはドイツやイタリアなど枢軸国でも日本語教育が盛んになった。日本も1934年、国際文化振興会を発足させ、対外宣伝と日本語の普及に努めた。
ロシアからは10代の少年の頃に日露戦争を経験した俊英たちが続々と日本に留学、優れた日本語研究の成果を残した。例えば、ニコライ・ネフスキーはペテルブルク大学中国・日本語学科で学び、1915年、教授候補の官費留学生として来日した。
言語学の天才と呼ばれたネフスキーはアイヌ語、宮古島の方言、台湾の曹語(ツォウ語)なども研究した。柳田國男、折口信夫、金田一京助、那覇出身の伊波普猷 (いは・ふゆう)らとも交流している。
しかし、1929年に帰国後、スターリン時代の粛清の嵐に巻き込まれて「スパイ」容疑で逮捕され、1937年、妻の萬谷イソとともに銃殺刑に処された。享年45歳。その後1957年にネフスキー夫妻の名誉回復がなされ、1962年には最高の国家勲章レーニン賞が贈られた。
米英は空前の規模で語学兵育成
「戦時下のアメリカやイギリスなど連合国では、空前の規模で日本語教育が実施されていた」。太平洋戦争期、米英両国は有能な人材を集めて徹底した日本語教育を施し、対日情報戦に勝利した。
「陸軍史上、これほど敵を知り抜いた上で戦った戦争はない」。連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーはこう言い放ったという。
著者は、当時の日本は「日本語は難しく外国人には理解できないという予断があったのだろうか」との仮説を提起する。そのうえで主に米英両国の戦時日本語教育の取り組みについて紹介している。
米国の海軍と陸軍は1941年から、ハーバード大学など主要大学に日本語の特別プログラムを設置し、「盗聴、暗号解読、宣伝活動、捕虜への尋問、軍事文書の解読ができる日本語人材の養成に総力を挙げていく」。そこには日系二世も動員された。
戦時日本語特訓コースはいくつもあったが、速成教育で成果を上げたのが陸軍特別訓練プログラム(ASTP)である。IQ130以上の若者を対象にし、定期テストの結果によっては原隊への復帰命令が発令されるが、修了できれば昇格が約束されていた。
一方、英国の陸海軍では1942年からロンドン大学東洋学部で戦時日本語集中コースが始まった。給費生コースは語学の才能のある17~18歳のエリート校出身の男子生徒を対象とした。
ロンドン近郊のベッドフォードには、「日本の暗号を解読するために六カ月で日本語を学ぶ秘密の日本語学校、ベッドフォード日本語学校があった」。1945年に閉鎖されるまで225人が学び、日本陸軍の暗号のほとんどを解読したともいわれている。
米英両国とも日本語の語学兵養成は「教師陣、訓練生、カリキュラムとも当時の粋を集めたものであった」という点で共通している。
語学兵たちの後日談もある。「アメリカ海軍日本語学校で学んだエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンは、翻訳を通じて日本文学の評価を国際的に高め、特にサイデンステッカーは、川端文学を翻訳し、彼のノーベル賞受賞への道を開いたと言われている」
イギリスで日本語特訓を受けたエリートでは「ヒュー・コータッチ(歴史学)、ダグラス・ミルズ(中世文学)、パトリック・オニール(能楽)、ロナルド・ドーア(社会学)、イアン・ニッシュ(政治学)、チャールズ・ダン(浄瑠璃)ら、日本研究の発展に寄与し、戦後の冷え込んだ日英関係の改善に貢献した者も少なくない」
海外での日本語の“需要”は続く
「日本語は、かつて宣教師たちに世界で最も難しい言語と言われていた」。確かに、西洋の言語を母語とする人たちにとっては難解かもしれない。
米国務省の外務職員局(FSI)は現在、英語を母語とする人が外国語習得にかかる時間を言語別に4つのカテゴリーに分類している。日本語は、最難度のカテゴリーⅣ(2200時間)に分類されている。
21世紀の今、人工知能(AI)による自動翻訳も進化している。それでも、海外で日本語を学ぶ人たちは増えている。国際交流基金が3年ごとに実施している「海外日本語教育機関調査」によると、2018年度は142国・地域で日本語教育が実施され、学習者数は384万6773人で2015年度比5.2%増。1979年と比べ、30.2倍になった。国・地域別では1位中国、2位インドネシア、3位韓国などアジアが目立つが、4位オーストラリア、8位米国と英語圏での学習者も少なくない。
地球上には7千以上の言語が存在するといわれる。様々な言語がある中で、国内外に日本語学校があり、日本語教師という職業が成り立つことは「いかに特殊なことなのか」と著者は説く。それだけ“需要”があるということだ。日本語も捨てたものではない。
蚕と戦争と日本語――欧米の日本理解はこうして始まった
小川 誉子美(著)
発行:ひつじ書房
四六判:424ページ
価格:3400円(税抜き)
発行日:2020年2月25日
ISBN:978-4-8234-1031-4