【書評】未来への鑑:與那覇潤著『荒れ野の六十年――東アジア世界の歴史地政学』
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東アジアは歴史観を共有できず
「すべては無駄であった」
本書の「まえがき――廃墟に棲(す)む人のために」は悲観的な書き出しで始まる。「東アジアで共有できる歴史観を持つという、ポスト冷戦期に多くの学者たちが模索した理想は、敗れたのである」
今世紀に入り、2002年から日韓両国で、06年からは日中両国の間でそれぞれ共同歴史研究が相次いだ。「東アジアや北東アジアを単位とした地域共同体の可能性を論ずるのもまた、当時の学識者の流行となっていた」のは今世紀初頭のことである。
しかし、中国が名目の国内総生産(GDP)で日本を凌駕した2010年の前後から、日中関係、日韓関係は激変した。「歴史観の統一や同一化が、国境を越えてなされることは起きえないし、その必要もない」と著者は悟った。
著者は1979年生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程修了の博士(学術)だ。2007年から15年まで愛知県立大学准教授として教鞭をとる。『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋、11年11月20日発行)などの著書で新進気鋭の歴史学者として脚光を浴びた。
ところが、14年夏に重度のうつ状態になった。休職、入院を経て17年に大学を辞した。その後、回復して18年から執筆活動を再開している。「職業的な意味での『歴史学者』は廃業している」とはいえ、「不惑」を迎えたばかりの歴史の語り部は健在だ。
気鋭の歴史学者が残す自選集
本書では「東アジアで共有される歴史という棲み家は、いまや訪れる人もなく荒れ果ててゆく」との認識を示す。そのうえで今回の出版の意図について「本書は私が歴史学者をしていたころに、拾い集めた瓦礫を積みあげた『東アジア史』のデッサンであり、いわば私なりの設計で巨大な廃墟の図面を引いてみたものだ」と明かしている。
学術論文集である本書に収められた論考は10篇、補論も3篇ある。それぞれ単独の作品として書かれており、初出は08年から15年のものだ。ちょうど日中、日韓の関係がギクシャクしていった時期と重なる。
本書の「あとがき――収録作品解題」で、各論考と補論について初出の時期と媒体名を明記。今回の出版に当たって改稿した部分も丁寧に解説している。当時の日本の学会や論壇の動向など背景説明も付け加えており、本書は十分に今日的意義を持つ。
国際社会は今、中国で発生した新型コロナウイルスに揺さぶられている。とりわけ東アジアで感染が拡大している。疫病が世界の歴史を変えた事例は少なくない。東アジア史を主題とする「自選集」は、くしくも世界保健機関(WHO)が緊急事態宣言をした1月30日に初版が発行された。
近世は「自覚的に曖昧な秩序」
本書の書名にも採用された論考は「荒れ野の六十年――植民地統治の思想とアイデンティティ再定義の様相」(初出は2013年6月の苅部直ほか編『日本思想史講座4――近代』ぺりかん社)。著者は「大学教員として残したなかで、もっとも優れた論文」と自賛する。
この論考によると、「近世(初期近代)」の東アジアの平和外交を支えたのは、曖昧(あいまい)さの活用だった。例えば、薩摩藩を通じて琉球を服属させた徳川日本も、琉球・朝鮮双方から朝貢を受けた清朝中国も、お互いにそのことを知っていながら、あえて問題視しなかった。
朝鮮通信使をめぐって日本側は「朝貢」(朝鮮の臣従)、朝鮮側は「巡視」(日本に対する監視)と受け止めた。相互の認識が食い違っていたが、多義的な解釈を許容していた。著者は近世の東アジアが平和と安定を保っていた国際秩序を「自覚的に曖昧な秩序」と呼ぶ。
19世紀、この秩序が揺らぐ。いわゆるウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)である。西洋近代型の厳格な国家主権、法治などの概念が東アジアに押し寄せた。「政治経済の双方において、条約締結を通じて関係各国間の認識の同一化を要求するヨーロッパの外交システムは、やがて十九世紀半ばのアヘン戦争、アロー戦争を通じて清朝中国に喰い入って来ることになる」のだ。
日清戦争から朝鮮戦争の60年
「荒れ野の六十年」とは、日清戦争の開戦(1894年)から、朝鮮戦争の休戦(1953年)に至る期間を指す。
東アジアの「自覚的に曖昧な秩序」の下での同床異夢的な共存を終焉させたのは、日清戦争である。1895年の下関条約で清は朝鮮の独立を確認し、「日本の台湾領有・その結果としての琉球帰属問題の自然消滅によって、東アジア三国間の領域確定が強行される」ことになったからだ。
この論考では、大日本帝国がなぜ植民地統治に失敗し、日中戦争に敗北したかについても詳しく分析している。そのうえで「大日本帝国崩壊後の東アジアの秩序を確定したのは、朝鮮戦争(一九五〇-五三年)である。北朝鮮と韓国のどちらが民族を代表する正統な主権であるのかを、軍事力によって確定する試みは挫折した」と結論づけている。
戦後、日本列島では「単一民族幻想に安住する日本人と、現在の居住地をあくまで仮の宿とみなす朝鮮・韓国人とが奇妙にすみ分ける、対話を欠いた多文化状況」が出現した。その昔“日中両属”だった沖縄には在日米軍基地問題が横たわる。大陸中国と台湾問題という「二つの中国」、そして「二つの朝鮮」に象徴される冷戦構造も続いている。
「境界が不明瞭な東アジア近世の秩序を、近代化された巨大な暴力によって整除しようとした日清戦争から朝鮮戦争までの六十年間の後に、再び自覚的な曖昧さの活用による、合意なき事実上の平和が回帰したのであった」と著者は看破する。
日本は西洋化ではなく「中国化」
日本の明治維新も、「中朝両国に類似した『十九世紀の危機』の産物として把握されねばならない」とみる。危機の時代の後、日本は中朝とは異なり「結果的に西洋型の近代化に『成功』し植民地帝国の支配者となった」とされるが、その通りなのか。
本書によると、「少なくとも思想史的には、三国のうち日本のみが社会秩序の『儒教化』というカードをこの時期まで切っていなかったことを挙げなければならない」と指摘する。
日本は江戸時代まで幕藩体制という非儒教的政体を維持していた。明治の維新政権は「『西洋化』と『儒教化』の時機の巧まざる同調によって成立した」。逆説的だが、明治以降の日本は「西洋化」というより、むしろ「中国化」したというのが著者の持論である。「中国化」の意味するところは、中国の宋の時代にまでさかのぼる。
西洋に先行する宋代以降近世説
「再近世化する世界?――東アジア史から見た国際社会論」(初出は2008年6月の大賀哲・杉田米行編『国際社会の意義と限界――理論・思想・歴史』国際書院)と題する論考も興味深い。
中華帝国は10世紀末からの宋の時代に世襲的な貴族政治を撤廃し、科挙制度による官僚登用システムを導入した。貴族ではなく、儒教の経典に基づく科挙の試験に合格した庶民が政治を担当することになった。
著者は、東洋史学の泰斗・内藤湖南(1866-1934年)の「宋代以降近世説」を引用する。宋朝は皇帝独裁政治ではあるが、世界で初めて身分制や世襲制が撤廃された。移動の自由や職業選択の自由などが実現するなど、社会の仕組みが画期的に変わった。
「西洋近代」よりはるか以前に、科挙制度による実力主義や機会の平等が先行していたのである。経済的にもアジアの方が豊かだった時代は確かに存在した。世界のGDPは19世紀前半まではずっと中国、インド、そして日本の3カ国合計で5割以上を占めたとの研究もある。
「より長期的な歴史的視野のもとに描かれたマクロ経済史のアジア論が、実にあっけらかんと前近代の世界経済における東アジア、なかでも中国の先進性や、ヨーロッパの後進性・局地性を説いている」。西洋近代こそ、歴史上の特殊な一時期だったとの見方もできる。
歴史学を目指す後進にエール
「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する」。1972年9月の日中共同声明の一節である。この声明で日中両国は戦争状態に終止符を打ち、国交を正常化した。
日中間の「荒れ野」は80年近く続いたともいえる。日中首脳会談などで中国の指導者は今でも「歴史を鑑とし、未来に向かう」という言葉を口にする。確かに、歴史は未来への「鑑」でもある。
「政治家は歴史という法廷の被告」。昨年11月29日、101歳で鬼籍に入った中曽根康弘元首相が残した名言だ。若いころは「風見鶏」とも揶揄された中曽根氏だが、歴史の重みを意識していたのは間違いない。果たして今の政治家はどうだろうか。
著者は本書のまえがきで「歴史のうえに現在の社会を位置づけて生きようとする人は、じっさいにはもうだいぶ昔から、廃墟に棲んでいたのだった。そのように考えるときはじめて、二十一世紀の初頭にこの国の歴史学がこうむった巨大な喪失と凋落の体験は、意味ある再出発の場所へと変わるのだと思う」と未来へ希望を託した。
あとがきの収録作品解題では「あえて、私が一研究者として執筆時に体験した学会のありようについても、読者に伝えるよう努めた。それでもなお、とりわけ『学問としての』歴史の世界に足を踏み入れようとする方がいるなら、掛け値なしにすばらしいことであり、どうかよくよく『人を見る眼』をもって、と助言するばかりである」と後進に忠告とエールを送っている。
荒れ野の六十年――東アジア世界の歴史地政学
與那覇 潤(著)
発行:勉誠出版
四六判:392ページ
価格:3200円(税抜き)
発行日:2020年1月30日
ISBN:978-4-585-22264-4