日本古典文学の「旅」:海外翻訳者の心に映った情景
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何世紀も前の旅人と出会う
本書は英文の日本古典文学紀行文集である。翻訳家で編集者でもある著者のメレディス・マッキニーは「序章」で、自らが選んだ作品の多くは、もともと「旅行文(travel)」に分類されていなかっただろうと指摘している。取り上げているのは旅を題材にした短編で、日本文学の傑作として名高いものも含め、幅広い作品から選出している。
万葉集を含む7世紀に作られた和歌から始まり、1689年に日本各地を旅した松尾芭蕉の旅行記『おくのほそ道』で締めくくられている。当時の日本、特に初期の頃は、首都・京都が「文明人がいる唯一の場所」のように思われていた。ゆえに読者は、険しい道を歩きながら、故郷を恋しがり、嫌々ながら旅を続けている旅人たちと出会うことになる。
武士が権力を握った鎌倉時代(1185–1333)になると状況が大きく変わる。都が東方に移ったことで京都と鎌倉を行き来する人が急増したのだ。登場する作者も、平安時代(794–1185)に文学的な伝統を維持してきた地方赴任が多い下級貴族から、次第に全国を行脚する僧侶に取って代わられた。
八橋とカキツバタ
紹介されている紀行文の特徴は、現在西洋で想定されるものとは大きく異なる。マッキニーは、「私たちは旅行記に物語性を求めるが、日本の作家や読者は、何世紀もの間、特に詩的であることを重視していた」と解説している。詩歌を詠むための下地として物語が作られたため、時折設定が矛盾していると思うこともある。
歌の舞台として知られるようになったことで、旅人たちの人気スポットになった場所がある。『伊勢物語』では、主人公が従者を引き連れて東国へ旅する途中、愛知県の「八橋」を訪れる。四方八方に流れる川に架けられた8つの橋が地名の由来だ。カキツバタが咲き誇る中、誰かが主人公に歌を詠むように促した。
主人公は、遠く離れた妻を思い、巧妙に練られた歌を詠んだ。「折句(おりく)」と呼ばれる手法で、5つの句の頭文字をつなげると「カ・キ・ツ・バ・タ」となる。それ以降、八橋に立ち寄った旅人たちは『伊勢物語』を思い出し、この地を流れる小川や橋、カキツバタのことを考えずにはいられなくなった。さらに「八橋」は芸術作品のテーマになった。たとえ、八橋を実際に見てがっかりしたとしてもだ。
13世紀の『海道記』では、ある僧侶が、同じ橋があったとしながらも、長年にわたって何度も再建されたに違いないと書いている。また一人旅をしていた『東関紀行』の作者は、秋に訪れたためカキツバタが咲いておらず、辺りには水田が広がっているだけだったが、元の歌に敬意を表して自らも歌を詠んだ。さらに公家の側室から尼になった『とはずがたり』の作者は、「八橋」で小川も橋も見つけることができず「まるで友を奪われたような気がする」と記している。
過去との対話
マッキニーは、これらの詩的な場所で旅人たちが先人と対話をすることによって、日本文学が脈々と受け継がれてきたと強調している。本書にはおなじみのモチーフが繰り返し登場するが、特定の時代にのみ焦点を当てた作品集では、そのような発見を楽しめなかっただろう。著者にとっては、個々の物語を充実させるよりも、時代を超えたつながりを伝える方がはるかに重要だったと思われる。
他に取り上げられている作品には、当時にしては珍しく、四国から本州までを沿岸伝いに航海した様子を記した『土佐日記』がある。また芭蕉の『おくのほそ道』には、旅のささいな出来事や深い内省的な描写があり、芭蕉が常に過去を訪れ、過去とつながりを持とうとしていたことがうかがえる。芭蕉より後になると、事実を率直に記した旅行記が多くなることから、マッキニーは、芭蕉がこの優雅な文学的な伝統を引き継いだ最後の文学者だと見ている。
各章の冒頭には、引用されている作品をよりよく理解するために背景資料や詳しい解説が記載されている。何世紀も前に書かれたこれらの作品は、英語圏の読者にとっては、現代の日本人以上に、文化的に異質なものに思えるかもしれない。しかし、マッキニーの助けを借りれば、いにしえの日本で旅をしている姿を心に描き、その情景に思いをはせることができるだろう。
(バナー画像:『富嶽(ふがく)三十六景』:駿州江尻(富士山の36の景観:駿河国の江尻)作:葛飾北斎、メトロポリタン美術館所蔵)