ノーベル文学賞では測れない功績―新しいフロンティアを開拓した村上春樹

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長年にわたりノーベル文学賞の有力候補として話題に上ってきた村上春樹だが、今回も受賞しなかった。だが、世界的人気作家となった村上が翻訳文学に果たした役割は大きい。

フロンティアを求めて

1987年の『ノルウェイの森』は大ベストセラーになったが、村上に大きなストレスを与えることになった。「外国文学の焼き直し、せいぜい日本でしか通用しない」などと批判され、当時のバブル経済で浮ついた日本社会にも嫌気が差していた。「新しいフロンティア」を切り開こうと、米国に目を向けて本格的に英語版の刊行に力を入れる。中国、台湾、韓国などではすでに翻訳されてよく読まれていたが、ニューヨークをハブに置いたことで、ヨーロッパでも発行部数が増大していった。

村上の世界的人気の背景には、各国の熱心な翻訳者の存在がある。10月19日からは、20年以上にわたり村上作品をデンマーク語で紹介してきた翻訳家のメッテ・ホルムを追ったドキュメンタリー『ドリーミング 村上春樹』が全国で順次公開される。

 なぜ、村上作品が世界で広く読まれるようになったのか。前出の河野氏の見解を紹介する。

【河野至恩・上智大学准教授】

村上作品が世界で広く評価されたのには、翻訳の戦略もある。最初に英訳を担当したアルフレッド・バーンバウムは、ポップなイメージを前面に出し、英語圏の読者を驚かせた。また、日本文学の研究者でもあるジェイ・ルービンの翻訳は正確に日本語の意味を訳出し、英語圏でも村上作品の文体の評価を高めるのに大きく貢献した。川端や大江と同様に、優れた翻訳者に恵まれたと言える。また、自ら翻訳を強く意識した文体を選んで執筆する一方、英語圏でのエージェントや編集者と緊密に連携するなど、翻訳で読まれることを強く意識した作家でもある。

短編 “TV People” が米文芸誌 「ニューヨーカー」に掲載されてから約30年。村上は日本文学史上もっとも翻訳された作家となった。翻訳で読める日本文学がまだ多いとは言えない現在、世界各地で村上作品を通して日本社会や日本文化に触れる若者も少なくない。そのポップな作風から、アニメやマンガなどのポップカルチャーとの親和性が高く、翻訳がここまで広く読まれたのは、アニメやマンガのグローバルな受容と関係があると考えられる。

初期作品では、村上が若い頃から愛読したレイモンド・チャンドラー、カート・ヴォネガット、レイモンド・カーヴァーなどの現代アメリカ作家の影響も強く見られた。またその作品世界では、現代社会で人々が抱える不安を、ファンタジー的な要素と都市生活の描写を交えながら描写している。批評家や研究者に評価されたのは近年のことだが、それ以前に国内・海外の一般読者から圧倒的な共感を得たのは、人々が共有する不安を個人の視点から描き、心理描写が秀逸だからだろう。

1995年の阪神・淡路大震災とオウム真理教事件の後は、災害やテロ、カルト宗教、戦争の記憶の問題など、現代社会の抱えるマクロな問題と個人との関係について、正面から引き受けた作品が目立つ。特に『神の子どもたちはみな踊る』の英訳は、2001年の同時多発テロ後の米国で出版され、テロの衝撃で混迷する米社会で大きな反響を呼んだ。

村上作品の翻訳での人気を通し、日本語から多様な現代文学の作家、とりわけ多くの女性作家の作品が翻訳されるようになっている。その意味でも、日本文学の翻訳の歴史において村上春樹が与えた影響は大きい。

バナー写真:早稲田大学で行われた記者会見で作家の村上春樹さんがサインした著書=2018年11月4日、東京都新宿区(時事)

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