【書評】軍部と闘った悲劇の宰相:城山三郎著『落日燃ゆ』
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ここ数年、言葉を失うような若手政治家の浅薄な言動が目立つ。あまりに軽く、戦争というものを知らなさすぎるのではないか。もちろん、評者自身も戦後生まれであり、戦争体験などあるわけではない。それでも体験者からの伝承で想像はできる。しかも戦争を生きた人々は言葉に重みがあり、骨太な生き様と相まって、信じることができる。
本作の著者である城山三郎は戦時中に海軍に入隊後、特攻隊に配属され、訓練中に終戦を迎えた。経済小説家である城山は、「男子の本懐」「指揮官たちの特攻」など重厚な戦時小説も著している。「落日燃ゆ」はその一つ。外交官出身で総理や外相を務め、身体を張って軍部と闘ったにもかかわらず、極東国際軍事裁判(東京裁判)ではA級戦犯として死刑判決を受けた広田弘毅の物語である。
歴史学者の間では、広田に対して厳しい評価もあるが、城山の目を通して見た広田は外国との協調や融和を目指す「協和外交主義者」として再評価されている。
忖度とは無縁
この本を読み返してみて率直に驚いたのは、当時の幣原喜重郎外相や広田弘毅らを擁する外務省が融和的な外交政策を唱えて、満州で暴走する関東軍など軍部とは一線を画していたとの記述だ。武力を持ち、なおかつ天皇の統帥権(軍隊を指揮監督する最高権限)という錦の御旗を利用し振りかざす軍部に対して、精一杯の抵抗を試みたのは、「忖度」流行りの昨今の政治状況と比較しても目を見張るものがある。
主人公の広田は名門の出ではなく、出世にも華やかな社交にも興味がなく、日本の行く末だけを見つめ続けた。「戦争は外交の行き詰った果てに起こる」が持論。軍部の台頭に腰の引けた政府から「成り手不在」として何度も請われ、首相のほか外相を二度務めた。犬養毅、浜口雄幸、高橋是清ら多くの政府要人が凶弾に倒れ、広田自身も首相就任に際し「最後のご奉公と思って引き受けた」と、死を覚悟した。
中国大陸への勢力拡大を目論む軍部に対し、広田は第三国を介して和平工作に努めるも横やりを入れられて努力はご破算になる。そうしたことの繰り返しで戦線は拡大、軍部は南京大虐殺を引き起こし、日中戦争の泥沼に陥ったとある。広田の「敵」は他国ではなく、もっぱら内なる軍部だったということになる。
その軍部に勢いを与えたのは、明治憲法だったと城山は本作でたびたび指摘している。必ずしも天皇の真意に沿っているかどうかにかかわらず、統帥権を盾に軍部は外部からの意見に耳を貸そうとしなかった。
「防げなかった」責任
本作のクライマックスは、東京裁判の場面だ。A級戦犯のリストの中に東条英機ら軍人に混ざって、広田の名前が載ったのである。検事団は「これだけの戦争を軍だけで遂行できるはずがない」として、軍と政府の共同謀議のシナリオを描き、つじつま合わせに文官をやり玉に挙げる必要が生じた。そして指導的立場にあった広田が選ばれてしまった。
広田は判決を静かに受け入れ、絞首台に消えていった。しかし、その意味合いは軍人たちとまるっきり違う。「戦争を防げなかった」責任を引き受けたのだ。広田の和平工作を妨害し、戦争に突き進んでいった軍人とはわけが違う。
刑の執行日。戦犯の軍人たちはそれぞれ「万歳!」を三唱してから刑場に向かったとある。自分の番を待つ広田は、それを聞いて「今、マンザイ(漫才)をやってたんでしょう」と教誨師に尋ねたという。軍人たちに向けられた痛烈な皮肉には、押し殺したような怒りと軽蔑の念が込められ、彼らとともに死ぬという運命の巡り合わせを笑いたくなったのかもしれない。
歴史の中に埋もれがちで、評価も必ずしも芳しくなかった広田。城山がそこに新しい光を当てて、人物像を浮かび上がらせようとしたのは、A級戦犯の烙印(らくいん)を押されたことの名誉回復と鎮魂、軍部への嫌悪感があったのではないか。
暗黒時代
本作は、戦場での戦闘シーンや無差別爆撃など凄惨(せいさん)な殺りく場面が出てくる訳ではない。急速に力を増す軍部に対し、政府・議会が抗しきれず、戦時体制へ向かう様を描いている。恐慌で窮乏化した国民も「生命線」満州への侵略行為をいつしか受け入れ、一切の異論も許されない暗黒時代に突入していった。戦争は外に対する軍事行為にとどまらず、内部から社会を侵食していくのだ。
戦後は帝国陸・海軍とも解体。新憲法の下で「専守防衛」の自衛隊が発足し、さらに文民統制(シビリアンコントロール)というタガもはめられた。本作を読んで、その意味合いをかみしめてみたい。
年 | 出来事 | 広田弘毅 |
---|---|---|
1930 | ロンドン海軍軍縮会議 | |
浜口雄幸首相の狙撃事件 | ||
1931 | 満州事変 | |
1932 | 満州国建国 | |
5・15事件 | ||
1933 | 国際連盟脱退 | 外相(33~36年) 首相(36~37年) 外相(37~38年) |
1936 | 2・26事件 | |
1937 | 盧溝橋事件、日中戦争へ | |
南京大虐殺 | ||
1938 | 国家総動員法 | |
1941 | 太平洋戦争 |
出典:「日本史辞典」を基に編集部が作成
落日燃ゆ
城山三郎著
発行:新潮社
文庫版:392ページ
初版発行日:1986年11月25日
ISBN: 978-4-10-113318-8