【書評】戦略的パートナーになれるか:小倉和夫著『日本の「世界化」と世界の「中国化」—日本人の中国観二千年を鳥瞰する』
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中国への親近感はなぜ衰えたか
内閣府が2018年10月に実施した外交に関する世論調査によると、「中国に親しみを感じる」と回答した人は20.8%、「親しみを感じない」は76.4%だった。
この調査は日中平和友好条約が締結された1978年以降ほぼ毎年実施され、最初の数年間は親しみを感じる人が6割から8割に達したが、90年代後半以降逆転し、最近は親近感がない人の方が多数派である。
著者は本書の冒頭で「二十一世紀の現在、中国は、経済・政治両面で、世界の大国としての地位をかため、技術や芸術においても世界的評価を受ける国になった。同時に、日本側において、中国の伝統文化を基礎とする親近感は衰え、その一方、マンガ、アニメ、現代小説など、いわゆる若者文化を通じて共感をもつ人々が増えている」との認識を示す。
明治維新以降、日本側からみると、中国は近代化に遅れ、混乱と混迷に満ちた国だったが、中国の文化的伝統への親近感が存在した。ところが、中国はいまや日本を凌駕する経済大国として台頭している。著者はこうした現状を「中国の大国化と日中間の伝統的つながりの衰退」と表現する。
新元号「令和」が中国の古典ではなく、初めて日本の古典から採用されたことは、現在の日中関係を象徴しているようにも映る。
本書は序章と(1)古代から江戸時代までの中国観(2)近代日本における政治家、外交官、実業家たちの中国観(3)近代日本の画家、文人の描いた中国と中国人像——の3部、そして「歴史的視点にたった新しい中国観を育てるために——結びにかえて」で構成されている。二千年の歴史を多角的な視点でたどり、「新しい中国観」を形成するための教訓やヒントを導き出そうとしている。
中国にかかわった人物を網羅した労作
卑弥呼をはじめ、紫式部、平清盛、道元、徳川家康、勝海舟、福沢諭吉、内村鑑三、徳富蘇峰、後藤新平、宮崎滔天、大隈重信、重光葵、石橋湛山、岸信介、大平正芳、阿部知二、藤田嗣治……。
中国に深く関与したとして著者が本書で取り上げた人物は優に50人を超える。
歴史書や文学作品は『魏志倭人伝』、『古事記』、『日本書紀』、『源氏物語』、『方丈記』、『徒然草』、『太平記』、『好色一代男』、『国姓爺合戦』、『雨月物語』、『氷川清話』、『文明論之概略』などを対象にした。
明治時代以降の小説や絵画については芥川龍之介の『湖南の扇』や梅原龍三郎の『姑娘とチューリップ』など作家別に中国観や中国人像をあぶりだした。
こうした歴史的人物、著名人、その経歴や著作物などを手掛かりに、その時代、時代にどのように中国と向き合っていたかを網羅的に詳細に分析している。
著者は外務省でベトナム、韓国、フランスの大使を歴任しただけに、政治家や外交官たちについての記述は秀逸で鋭い。
例えば、戦後、外相、首相に就任し、日米安全保障条約を結んだ吉田茂。戦前は外交官として在外勤務の大半を中国で過ごし「潜在的に大きな経済圏として中国を見ていた」。彼の中国観については「透徹で現実主義的な、どこか突き放したような感覚が見てとれる」と描写する。
出典などを列挙した本書巻末の「注」は18ページに及ぶ。「日中関係史年表」(西暦238~1980年)も充実しており、まさに労作である。
明治まで続いた中国の「知的権威」
弥生時代、邪馬台国の女王卑弥呼は中国(魏)に使者を送り、中国は朝鮮半島の支配地域(帯方郡)を通じて日本(倭)と通交した。
聖徳太子が活躍した飛鳥時代、遣隋使に象徴されるように大和朝廷は隋王朝と活発な接触があった。この時代まで中国は儒教、仏教の国であり、日本にとってほぼ唯一の「外国」だった。
阿倍仲麻呂に代表される遣唐使の時代、当時の唐帝国は一種の「国際社会」であったのではないか、と著者はみる。
中国は「学びの場所、あこがれの国」でもあった。
『枕草子』には中国やその文物に触れているくだりが十数カ所もある。
著者は、清少納言が論語や漢学に造詣が深く、「漢文、漢詩を中心とする中国の文化が、平安貴族の教養の高さを図る尺度であった。(中略)中国は、平安時代の日本にとって『知的権威』の源であり、基本的には、明治時代までそれが続いたといえる」との見解を示している。
江戸時代に「脱亜」への準備進む
室町時代、「三国一」という言葉が京都で流行したという。三国とは日本、唐土(中国)、天竺(インド)を指す。これが当時の“世界観”だったのだろう。
安土桃山時代、豊臣秀吉にとっての中国(明)はある面では進出、制覇の対象であり、自らの権威の源泉であり、貿易通商相手でもあった。
本書には、1591年7月、秀吉がポルトガルのインド総督に送った書状の話が出てくる。
秀吉は「西洋のキリスト教に対抗すべきものとして、日本、明、インドを含めたアジアの精神『神儒仏』をとりあげ、これらは元来同一のものであるという見解を記した」としている。
時代は下って江戸時代。「平安時代や室町時代と同じく、江戸時代の文学作品においても、中国は、まずもって、前例とすべき故事来歴の国であり、知識、学問の源泉であった」。その一方で「江戸文学全般に見られる中国観を総括してみると、かなり冷静な中国観がうかびあがる」という。
著者は「総合的にみれば、日本は、徳川時代において、既に、かなりの程度脱亜(脱中国)の準備が整いつつあった」と、江戸時代に“脱亜入欧”の準備が進んでいたとの仮説を提示する。
中国は再び国際社会の主役に
日本と中国は長い交流の歴史がある。
「二千年の友好と五十年の対立」。周恩来元首相はかつて、こう振り返った。
1894~95年の日清戦争から1945年の終戦まで、明治以降の半世紀は「対立」の時代だった。
著者によれば、「近代において、欧米のアジア侵略への対抗、あるいは、黄禍論への対処といった面で、日中両国がパートナーシップを組めなかった理由を、もっぱら、中国の近代化の遅れや日本の植民地支配のせいに帰するのは単純過ぎる見方であろう」「歴史をひもとけば、そもそも、西洋文明の吸収のしかた、それへの対処のしかたの根本において、日本と中国には違いがあった」
日本が100年かけて自らを西洋化、いわば「世界化」したのに対し、中国は200年、300年かけて西洋を「中国化」しようとしていると看破するのである。
著者は「日本が真の意味で、中国と戦略的パートナーを組もうとするのであれば、西洋文明の将来と中国文明の将来についての考え方を日中間で相当程度すりあわせる必要がでてくるだろう。その意味で、日本の『新しい中国観』は、日本の新しい欧米観とも連動する要素をもつといえる」と結論づけている。
21世紀、好むと好まざるとにかかわらず中国が国際社会の主役になりつつある。日本の世界観や国際社会に対する見方も、古代や中世の時代のように「中国」を触媒として形成される時代が再来するのかもしれない。