【書評】冷戦の戦士に捧げる「鎮魂歌」:ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』(前編)
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「彼の過去を知る人間が必要なんだ、ジョージ。彼のちょっとした癖などを知っていた人間、彼を同定できて、スキャンダルを未然にふせげる人間が。そこでジョージ、きみが必要なんだ」
ようやく眠りにおちたスマイリーは、枕元で鳴る電話に起こされた。
ロンドン市内バイウォーター・ストリートにある自宅で、スマイリーはひとり暮らしをしている。愛する妻アンとは別れ、サーカス(英国情報部)も引退して深い孤独のなかにいた。
緊急を要する深夜の電話。これがすべての始まりだった。
受話器の向こうにいたのは、情報機関のお目付け役をつとめる政権の高官オリヴァー・レイコンである。
彼とは、かつてサーカスの権力中枢に潜むソ連の二重スパイ「もぐら」の摘発で協力しあった間柄であり、ずいぶん古い付き合いになる。
その日の夜更け、スマイリーは、殺人事件の現場に立っていた。
公園に横たわる、顔面を殺傷力の高い銃弾で潰された無残な遺体。
冷戦の最中にソ連から亡命してきた軍人で、以前に、スマイリーが身柄を引き受け担当していたことがある。
凶器は、モスクワ・センター(ソ連情報部)の工作員が使用する特殊な短銃だった。
読書の至福が訪れる作品
1979年に刊行された本作によって、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974年)、『スクールボーイ閣下』(1977年)と続いたスマイリー三部作が完結する。
スパイ小説のジャンルで、これほどいまだに読み継がれ、傑作の誉れ高いシリーズ作品はないだろう。
ル・カレの作品、とくにこの作品群は、読者にとってかなり手強い読み物だ。もつれた糸のように物語の展開は行きつ戻りつ錯綜し、道筋がまったく見えない。いま読んでいる、一見、どうでもよいような挿話が、あとになって重要な意味をもってくる。
なんどページを後戻りして読み返してみたことか。そのため私は、付箋を張りながら読みすすんだものである。
ところが、あるところまでくると、忽然と、山の頂が雲の切れ目からのぞく瞬間がある。そこから先は一気呵成だ。必ずや、読書の至福が訪れる。
しかも本作は、「英ソ諜報部の両雄が積年の対決にあざやかな決着をつける!」と宣伝文句にある。いよいよスマイリーとカーラが雌雄を決するときがきたというわけだ。
これは読まずにはいられない!
本作は、シリーズのなかでも一番、物語の展開がわかりやすいと思う。ル・カレ独特の文体に馴染んだこともあるだろうが、それ以上に、スマイリー自らが単独で真相の解明にむけて行動しているからだ。
老骨にムチ打ってのスマイリーの活躍。それが本作の最大の読みどころである。
冷戦時代の遺物
それでは物語の世界へ。
時代背景は1970年代半ば。鋭く対立した東西冷戦からデタント(緊張緩和)へと、国際情勢は移り変わっている。
ベトナム戦争の後始末、中ソ対立などなど、米ソともに国内外で深刻な問題を抱えており、表面的には対立から融和の道を模索していた。東西間の揉め事はなるべく避けておきたい、というご時世である。
それに呼応して、英国情報部の在り様も変わらざるをえなかった。
サーカスを監視する政府機関、通称「賢人会議」が設立され、非合法な諜報活動は事実上禁止。予算も大幅に削減される。
そうしたなかで、かつては手厚く庇護していた、東側からの亡命者の切り捨てがはじまった。
惨殺された老人は、ソ連から亡命してきた旧赤軍の軍人ウラジーミル。エストニアの出身で、「将軍」と呼ばれ、亡命者グループのリーダー格である。
彼は、西側に亡命するまで、サーカスがソ連に潜ませていた二重スパイとして重宝されていた。当時、この工作員の担当管理官がスマイリーだった。
「三年間というもの、ウラジーミルはわれわれが、ソ連の意図と能力にかんして持っていた最良の情報源だった——しかもあの冷戦のさなかにだ」
と、スマイリーは高く評価していた。
とはいえ、それもはるか以前の話。いまや情報源としての価値は失われ、かろうじて新米情報部員が担当として当てがわれてはいたが、もはや見捨てられたも同然だった。
そんな冷戦時代の遺物のような亡命者から、新米情報部員に突然、連絡が入る。
「グレゴリーからマックスに連絡。急用だ」
かつての暗号名で、ウラジーミルがグレゴリー。マックスがスマイリーだが、スマイリーはとうに引退している。
新米は上司に報告するが、どうせ、金に困っての無心だろうと、相手にされない。あたら時間を浪費しているうちに、亡命者は殺害されてしまったのだ。
「サンドマンにかんすることだ」
なぜ、スマイリーが呼び戻されたのか。
サーカスは、とっくにウラジーミルとの関係を絶っており、なんらかの諜報活動中に殺害されたわけではなく、情報部とは関係ない事件だったとしたい。
暴漢に襲われたかもしれないし、亡命者グループの仲間割れだったかもしれない。冒頭の会話に登場するレイコンは、そう結論付けたかった。
しかし、新設された情報部を監視する「賢人会議」は、そうは見ないかもしれない。現に亡命者は、情報部に接触を求めていた。疑惑はもたれるだろう。
だからレイコンはスマイリーに電話をかけた。彼の死は、いまの情報部とは無関係であることを明らかにしてほしいというわけだ。
だが、事件の根は相当根深いものだった。それは過去から引き摺っている、深い闇の世界に結びついている。それがいまになって亡霊のように現れた——。
スマイリーはモスクワ・センターの仕業と見抜いていた。
では、どうして今頃になって、老いた亡命者を殺害するのか。
その答えは、ウラジーミルが新米情報部員に遺した最後の言葉に隠されていた。
その意味に気づく者は、いまのサーカスにはもはやいない。
「サンドマンにかんすることだとマックスにいってくれ。証拠の品がふたつあるから持って行く、と。そういえばきっとわたしに会う」
「サンドマン」とは誰なのか?
そして「ふたつの証拠の品」とは何なのか?
スマイリーの単独捜査
スマイリーは単独で動かざるをえない。事件は情報部とは無関係という建前上、組織の支援は期待できないのだ。
さあ、ここからだ。スマイリーの見事な捜査を垣間見てみよう。
スマイリーは、ウラジーミルが住むテラスハウスの、粗末な部屋を訪ねる。
犯人が「証拠の品」を家探しした形跡はなかった。
老いた亡命者が好きだった「ゴロワーズ・カポラル」というフランス製の煙草。その十箱入りのワンケースが残されていたが、一箱が欠けていた。灰皿にその銘柄の吸い殻が三本。
スマイリーは、思い出していた。遺体の所持品のなかにマッチはあったが煙草はなかった。ちょっと頭にひっかかるところがある。
スマイリーは殺害現場の公園に戻ってみる。
昨晩、ロンドン警察の刑事が、残されたウラジーミルの靴跡から、犯行現場付近の行動を教えてくれていた。
彼は右脚が悪く、右手で杖をついていた。湿った遊歩道に、靴跡とともに杖の跡も残っている。
遺体のあった地点の少し手前から急に歩幅が狭くなり、走って逃げたと想像できる。犯行の状況を推察すれば、犯人に後ろから追われ、もうひとりの犯人が正面に現れ至近距離から顔面に向けて銃弾を放ったのであろう。
問題は、杖の跡だった。
それまで右手側についていた杖の跡が、走って逃げる直前から、左手側に跡が残っているのだ。
どうして杖を持ちかえたのか。
スマイリーの推理は、追手から逃れる途中で立ち止まり、利き腕の右手で、持っていた何かを隠そうとしたのではないか。切羽詰まったスパイは、大事なものをどこかに隠す。
スマイリーは、杖を持ちかえた場所を丹念に探してみる。
はたして、ちょうど木の幹と枝の股の間に、煙草のパッケージが隠されていた。
銘柄は、あの「ゴロワーズ・カポラル」。
なかに、写真のネガが一枚入っていた。
写真のなかの男と女
スマイリーは帰宅後、自らの手で現像した。
そこに映っていたのは、男二人と美女が二人。誰なのか。ひとりの男の顔に、うっすらと記憶がある。撮影された場所はどこなのか。
「ふたつの証拠の品」のうち、ひとつが手に入った。「もうひとつの証拠の品」はどこにあるのか。あるいは、モスクワ・センターが送り込んだ暗殺者が、ウラジーミルから奪い取ったのか。
一枚の写真を手掛かりにして、スマイリーの探索行は続く。
ここまで序盤戦のあらすじを紹介したが、これだけでもじゅうぶん謎解きの面白さが伝わったのではないかと思う。
まだまだこれなどほんの序の口。お楽しみは、これからである。
(後編に続く)
スマイリーと仲間たち
ジョン・ル・カレ(著)、村上 博基(訳)
発行:早川書房
ハヤカワ文庫 575ページ
初版年月:1987年4月10日
ISBN:9784150404390