【書評】必然だった番狂わせ:生島淳著『エディー・ウォーズ』
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以前、斜め前の席に座る強面の上司が呟いたことがあった。
「ときどき夜中に“南ア戦”の録画を見て、自分も頑張ろうと気合を入れる」
旧知の友人は、自宅の録画用ハードディスクが壊れた時、真っ先に“南ア戦”が消えたことを嘆いていた。また別の友人は、今も“南ア戦”を思い出すたびに目頭が熱くなると話す。
彼らが言う“南ア戦”。
それは、2015年9月19日にイングランドの都市ブライトンで行われた、ラグビー・ワールドカップ(W杯)の日本対南アフリカ戦のことだ。
1987年にW杯に初めて参加して以降1勝しか挙げたことがなく、「世界のラグビー界で、“ジョーク”だと思われて」いたラグビー日本代表(以下ジャパン)は、過去2度のW杯優勝を誇る強豪の南アフリカ共和国代表、通称「スプリングボクス」を34―32で破り、世界中のラグビーファンを驚かせた。……だけでなく、日本中を文字通り熱狂の渦に巻き込んだ。
なぜ、ジャパンは南アフリカに勝てたのか。
そしてなぜ、今も“南ア戦”は特別なのか。
その答えが、2016年に刊行された『エディー・ウォーズ』にある。
誰もハッピーにさせない、という哲学
2012年4月、オーストラリア人のエディー・ジョーンズがジャパンのヘッドコーチに就任し、「2015年に世界のトップ10に入る」という目標を掲げた日からすべては始まった。
この本の魅力は、エディー・ジョーンズという日本のラグビー史に名を刻む知将について、選手やスタッフの証言を基に徹底的に正直に書いているところだ。過度な美辞麗句もなければ、無駄なドラマタイズもない。
だからこそ、エディーがチームを作り上げる手腕が際立つ。
はっきり言って、エディー・ジョーンズは嫌なヤツだ。自分の上司だったらと想像するとゾッとする。なにしろ、「選手だけでなく、スタッフも決して『ハッピー』な精神状態にはさせないのがエディーの仕事の進め方」なのだ。
大怪我をし、10カ月間懸命にリハビリに取り組んできた選手に向かって、「この10カ月は、まったくの無駄だったようだな」と突き放す。練習で犯したたった1度のミスを許さずに家に帰るよう通告し、チケットまで手配する。午前4時に、「あなたのおかげで、チームはめちゃめちゃです」とメールを送りつける。
いずれも選手の能力を高め、チームを強化するための「マインドゲーム」なのだが、選手たちに一切説明はない。W杯に向かう最後の1年間、長期にわたって自宅から離れ、昼寝の時間まで決められるほど厳しく管理された生活を送るうち、エディーに怒鳴られる夢を見てうなされる者すら出てくるほどだ。
スタッフに対しても、エディーの要求水準は極めて高い。
分析担当のスタッフは、試合終了後から翌朝まで一睡もせずに要求された映像素材を用意する。移動時間の予測が数分でもずれれば、総務のスタッフは「あなたのせいで予定が狂いました。選手の集中力が欠けたのは、あなたのせいです」と非難されるため、幾度となく綿密なシミュレーションを繰り返す。
選手やスタッフは、そうやってときに涙をこらえ、ときに励まし合いながら、自分たちのプライドを懸けて、この、一切の妥協を許さない指揮官と戦い続ける。
描かれるのは、エディー・ジョーンズとの戦争——この本のタイトルでもある、『エディー・ウォーズ』——だ。その戦いは美談ではない。傷をえぐるように生々しいエピソードに溢れている。
「歴史を変えるのは誰?」
3年間に及ぶ指揮官との戦いは、迎えたW杯初戦、南ア戦が残り2分を切ったところで、見事な結実を見せる。
得点は29対32、日本が3点のビハインド。3点が取れるペナルティーキックで同点を狙うよう、スタンドから「テイキング・スリー!」と大声を浴びせるエディーを無視して、キャプテンのリーチ・マイケルはある決断を下す。
リーチの選択を目にしたエディーは「ここは3点だろうが!」と激怒し、耳に付けていた無線機を投げ捨て、壊した。
その日の朝、カフェでスムージーを飲みながら、エディーはリーチに「最後は、自分の感覚に従うんだ」と伝えている。
苛酷な合宿生活を共に過ごした賜物として、リーチはメンバーの気持ちが手に取るように分かっていた。フィールドの仲間たちは、勝つ気になっている。
「歴史を変えるのは誰?」と選手の叫び声が上がり、番狂わせを目前にしたスタンドからは、大きなジャパンコールが起こった。
エディー・ジョーンズが仕掛けた戦争は、ヘッドコーチの指示を忠実に守って結果を出す選手ではなく、自分たちで考えて判断し、自信を持って戦うチームを作り上げていた。土壇場でチームが出した選択は、指揮官の判断を超えたのだ。
試合後の記者会見に向かうエディーは、満たされた表情で言った。
「ドリームズ・カム・トゥルー」
南ア戦の結果を知っていてもなお本書がおもしろいのは、「2015年に世界のトップ10に入る」と謳い、歴史を変えると宣言したエディーが、選手やスタッフに何を要求し、どう迷いながらチームを作り上げていったのかが、さまざまな視点を通してつぶさに読者に伝わるからだろう。
著者が「恐怖政治」と表現するほどの言葉を投げつけた後、言い過ぎたと反省してスタッフを通じて謝る可愛げや、メンバー入りのボーダーライン上にいる選手を、周囲も同情するほど追い込んだ裏にあった大きな期待を知るうち、嫌なヤツと思っていたエディーへの感情がいつしか変わっていく。
なんとも人間くさい人なのだ。
極めつけは、チームがイングランドを去る朝。エディー・ジャパン最後のミーティングで、リーチの話を聞くエディーがどんな表情を浮かべていたのかは、ぜひ本書で確かめてほしい。
4年後のジャパンはどう戦うのか
2012年にヘッドコーチに就任して以降、エディー・ジョーンズは選手たちに、桜のジャージを着てジャパンでプレーする誇りを持たせようとした。長い間勝利から遠ざかるうちに、「ラグビー界にとって必ずしも日本代表がトップ・プライオリティではない時代」が生まれていたのだ。
エディーによって、その空気は着実に変わっていった。「エディーの恐怖」を味わった選手たちは、その対価として世界の強豪と互角に戦える楽しさを知り、ジャパンの一員としてW杯で勝つというゴールを目指して自らにハードワークを課し、鍛え抜く。
そうやって、「双方向性を求めるエディーのコーチング」は、4年をかけ選手たちに根付いていった。その象徴が南ア戦であり、イングランドでジャパンが見せた戦いぶりだった。本書が、スポーツノンフィクションにとどまらず、マネジメント論やリーダー論、組織論としても読める所以だ。
南ア戦から4年が経ち、ジャパンは2019年、再びW杯の舞台に立つ。しかも会場は日本だ。
すでにエディー・ジョーンズはチームを去り、メンバーもずいぶん替わった。だが、日本代表としてプレーする誇りというエディーが蒔いた種は、今なお育ち続けているはずだ。本書を読むと、彼らの戦いが楽しみになる。
ちなみにエディー・ジョーンズ率いるイングランド代表と日本代表が対戦するとすれば、決勝戦しかない。もし実現すれば、ジャパンは“恩師”相手にどう戦うのだろうか。