【書評】スパイ小説の巨匠が描く「アジアの冷戦」(前編):ジョン・ル・カレ著『スクールボーイ閣下』
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タイにある米空軍基地でかわされた会話。
「ところで、うれしいニュースをきいてるかね」
「なんのニュースです」
「われわれは戦争に負けたよ、ウェスタビー君。本当だ。ついさっき、最後の勇士たちがサイゴンの大使館屋上からヘリで飛び立った。淫売屋で寝込みをおそわれた新兵のように泡をくらってだ」
そして、米情報機関に連なる少佐は、ジャーナリストにして英国情報部の工作員ジェリー・ウェスタビーに手をさしだした。
「アメリカ合衆国はたったいま、きみの国が会長であり最古参メンバーであるところの、二流国クラブに加盟を申し込んだんだ。さあ握手!」
1975年4月30日のことである。
このくだりは、文庫の下巻、物語が佳境にはいったところで出てくる。
英国はすでに老境にさしかかった昨日の大国であり、今度はベトナム戦争で手痛い敗北を喫した米国が凋落を迎えるのか。
本作は、こうした東アジアの暗い時代を背景に描かれている。
この作品は、英国情報部員のジョージ・スマイリーを主人公とする『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974年)の続編として、1977年に刊行された。前作のストーリーは、ソ連がサーカス(英国情報部)の中枢に送り込んだ二重スパイの「もぐら」(潜入工作員)をスマイリーが追い詰めていくという展開だった。
本作は、「もぐら」による情報漏洩から壊滅的なダメージを受けた英国の情報部を再建するため、スマイリーがチーフとして復帰するところから始まる。
香港からの撤退
それでは、物語の世界に入って行こう。
プロローグは、まだ英国の支配下にあった香港から、英国情報部が撤退していく場面である。
スマイリーが手始めに着手したのが、海外の出先機関の見直しだった。「もぐら」によって、英国情報部の組織の全貌はクレムリンに筒抜けになっており、一度解体して出直さなければならなかった。
世界各国で出先機関が次々と閉鎖され、工作員が逃げていく。
なかでも「香港からのダンケルク撤退」には重要な意味が込められていた。
だが、スマイリーは防戦に終始していたのではない。
インテリジェンス大国の英国は、瀕死の重態に見えたが、虎視眈々と反撃のチャンスをうかがっていた。
スマイリーはごく少人数のチームを作った。
全幅の信頼を置くメンバーは、筆頭格が側近のピーター・ギラム。『寒い国から帰ってきたスパイ』や『ティンカー、テイラー~』をすでにお読みの方ならお馴染みだろう。
ソ連の観察者として抜群の知識をもつ中年女性のコニー・サックス。彼女は引退の身だったが、「もぐら」を摘発する貴重な情報をスマイリーにもたらした。そして復職を果たしている。
新顔だが、中国問題の専門家ドク・ディサーリス。このふたりの調査と分析とで、この先、いくつもの謎が解かれていく。いわばスマイリーの知恵袋。
復職したスマイリーの執務室の壁には、ソ連の工作指揮官通称カーラの古ぼけた写真がかけられている。「もぐら」を送り込んだ宿敵だ。
スマイリーの無念の思いと復讐の執念が滲んでいる。
ラオスの銀行から送金
やがて、膨大な資料をもとに「もぐら」が関与した作戦を分析するうち、スマイリーは反撃の糸口を発見する。
モスクワ・センター(ソ連情報部)から、パリの銀行を経て、ラオスのビエンチャンにある銀行に定期的に金が振り込まれていたことが判明する。
さらにそこから、香港にある銀行に移し替えられていた。
この金は一度も引き出されておらず、いまやプールされた資金は巨額になっている。
受取人は誰なのか。そしてまた、何のための工作資金なのか。
この線を解明していけば、ソ連の工作指揮官カーラがなにを狙っていたのかが明らかになる。先手を打てば、モスクワ・センターを出し抜くことができるだろう。
スマイリーは、イタリアで休眠状態だった工作員ジェリー・ウェスタビーをサーカスに呼び戻す。
以下は、私の好きな場面。
「用意はいいね。やる気はあるな」
とスマイリー。
「大丈夫」
すこしはちがった返事ができないものかとウェスタビーは自問する。
ここで珍しく、スマイリーが冗長に話し出す。
「当節やる気のない人間が多すぎる。ことにイギリスではそうだ。懐疑をもってまっとうな哲学とする人間が多すぎるんだ。(略)傍観者の勝った戦いなどかつてない。(略)われわれの戦いは一九一七年、ボルシェヴィキ革命とともにはじまった。以来すこしもかわっていない」
そしてこうも言う。
「わたしにはいまだに、借りの意識が強くのこっている。きみはどうだ。わたしは最初からこの仕事には感謝してきたんだ。借りを返す機会をあたえられたことを。(略)だからわれわれはおそれずに……献身すべきだと思う。こういうのは古めかしいかね」
スマイリーはめったに自分のことを語らない。著者は、なにげない場面にこうした会話をはさみこむ。これが実に味わい深いのだ。
しかし、ウェスタビーは、こう思う。
<ジョージにはどこか道を誤った聖職者みたいなところがあって、としをとるにつれ、それは顕著になった>
二人は諜報組織の管理官と前線の工作員という関係にすぎない。だからウェスタビーはあえて、つれない返事しかしない。
「よしてくれ。方角をさしてくれりゃ、こっちは行進するよ。ボスはあんただ」
ウェスタビーは香港へ向かった。
阿片をめぐる密貿易
作品の舞台は、英国はむろんのこととして、香港を起点としてインドシナ半島の大半におよぶ。スマイリーが送り込んだ工作員は、香港からラオス、ベトナム、タイへと単身乗り込んでいく。それがジェリー・ウエスタビーであり、彼が本作で主要な登場人物となる。
というよりも、むしろ主役級の活躍を見せるのだ。
彼は貴族階級の出身。第二次大戦中は陸軍少尉で、戦後、オクスフォード復学を目前に控えて、サーカス入りを志願した。
読者は彼の強烈なキャラクターに惹きつけられること請け合い。
ウェスタビーは、フリーのジャーナリストとして香港に乗り込んでいく。彼は、かつてインドシナ半島の戦争を取材した経験があり、香港の地理にも詳しい。
特派員やジャーナリストという肩書は、スパイにとってかっこうの隠れ蓑である。なにしろ取材と称してどこへでも行って話を聞ける。
ウェスタビーは、問題の銀行を訪れる。そこには賄賂に弱い旧知の銀行員がいた。彼を脅して、ウェスタビーは巨額の資金がプールされている口座の受取人を聞き出すことに成功する。
上海生まれの中国人だった。ドレイク・コウ。香港では有名な実業家にして大富豪。
ウェスタビーは競馬場で偶然、コウを見かける。
<ただ、ひとつちらとほの見えるものがあった。そういうのを身にそなえた男がいるものだ。(略)すなわち、なんでもたちどころに用意させる能力がちらついていた。なにか必要になれば、かくれている連中がただちに持って参じるのだ。>
つまりいかにも成功者に見えるということだ。
馬主のコウは、愛馬の観戦に来ていたわけだが、その馬が当然のようにレースに勝つ。
コウとつねに行動をともにする側近のチュウ。「頑丈なからだつきに柔和な顔立ち」だが、正体は凶暴な男である。
そして、コウに寄り添う謎の美女リジー・ワージントン。
彼女はいったい何者なのか。
当面、英国情報部の標的は、香港在住の謎の中国人ドレイク・コウに絞られていく。
香港に派遣されたウェスタビーは、リジーの素性を追いかけるうち、インドシナ半島の阿片をめぐる密貿易に踏み込んでいく。
中産階級の出で、英国を飛び出したリジーには悲しい過去がある。
彼女は、いっときラオスの首都ビエンチャンで暮らしていた時期がある。粗暴な雇われパイロットの愛人として。英国情報部の現地工作員の手先を務めていたこともあった。
これが、のちに彼女の運命を狂わせていく。
一方で、第二次世界大戦の戦災孤児だったコウには、生き別れになった弟がいたことが判明する。のちにこの弟ネルソンは、毛沢東率いる中国共産党の党員となって頭角を現し、ソ連に留学。親ソ派のエリートとして党の要職についていくのだが、中ソ対立とその後の文化大革命によって一度は失脚。最近になって復活を果たしたらしい。
戦術を百八十度転換する
だが、そこまで調査が進んだものの、モスクワ・センターの狙いはわからない。
ここでスマイリーは、思い切った作戦に出る。
チームの面々を前にして、こう宣言するのだ。
「問題は手詰まり状態を打開するにある。作戦には解決されないほうが有利にはこぶものと、解決されなくては無意味なものとがある」
むろん、今回のケースは解決されねばならない。
「それには戦術を百八十度転換することかと思う。すなわち、われわれのコウの行動への関心を、いっそ本人に知らせるのだ」
これまでは隠密作戦で行動が制限されていたが、ここからは一気呵成に情勢が動いていく。香港の工作員に指令が飛ぶ。
「コウの木にゆさぶりをかける」
ウェスタビーは、コウと身近な人物に次々と接近していく。
コウの愛人リジーにも接触した。そこへチュウが現れる。
当然、コウの耳に不穏な動きが伝わる。
早々に、反応が現れる。しかも凶暴なかたちで。
口座の受取人をウェスタビーに漏らした銀行員が拷問の末、惨殺されて、場末に捨てられていた。香港のウェスタビーの住居に居候していた若いジャーナリストが、彼と間違われて銃殺される。
ここから先の展開は、本作を読んでのお楽しみだ。それこそ、読者は息つく暇もなく、ページを繰っていくことになるだろう。
(後編に続く)