1章 人類が自ら招いた危機:(5)大都市をパニックに陥れた蚊の恐怖
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都心に熱帯病が出現
まるでパニック映画のような事件だった。東京のど真ん中で突然、熱帯病の流行が始まったのだ。2014年8月25日、都内の女子高生が高熱と全身の痛みで病院に運ばれた。国立感染症研究所が検体を分析したところ、デング熱と診断された。同じ学校に通う他の2人も感染していた。3人はいずれも海外渡航歴がなく、都心の東京都立代々木公園で課外活動中に蚊に刺されたことから発病した。
約70年ぶりのデング熱の国内発生は大ニュースになった。代々木公園ではさまざまなイベントが開催され、年間500万人以上が利用する。近くには渋谷や原宿などの繁華街もある。この騒動で都は公園を閉鎖し、蚊の発生を抑えるため殺虫剤をまき、噴水池の水も抜いた。至る所に「蚊にご注意」と警告する看板が立てられた。
その後次々に感染者が見つかり、約2カ月後の10月15日までに、北は青森県、南は高知県まで19都道府県から感染者が報告された。最終的に、都内では108人、全国で162人が感染したが、幸いなことに重症者はいなかった。
デング熱ウイルスを媒介するのは、熱帯や亜熱帯に生息するヒトスジシマカやネッタイシマカ。刺されると蚊の唾液とともにウイルスが体内に侵入する。そのヒトの血を吸った蚊が別のヒトを刺すことで、感染者が広がっていく。私もタイで感染したことがあるが、突然の高熱につづいて頭痛と吐き気に襲われ、湿疹が現れる。英語ではBreak bone fever(骨折り熱)と呼ばれているとおり、耐えがたい関節の痛みに襲われた。
デング熱は古くから知られた感染症で、最古の記録は10世紀の中国にさかのぼる。第2次世界大戦中から戦後にかけてフィリピンとタイで広がり、東南アジア全域に拡大し、その後米国でも発生した。日本でも、第2次世界大戦中に、神戸、大阪、広島などで流行し、感染者は20万人にも達した。東南アジアからの復員者が持ち込んだとされる。代々木公園ではアジアや南米の国際フェスティバルが開かれ、これらの国からの参加者がウイルスを持ち込んだ可能性もある。
デング熱の感染者数はこの20数年で、世界的に増加してきた。WHO(世界保健機関)によると、2000年に約50 万人だった感染者数が、2024年5月現在、約130カ国で800万人に達している。特に、ベトナム、バングラデシュ、タイなどのアジア諸国では最悪の流行になっている。ただし、致死率は0.06%と高くはない。
流行の原因の1つは、殺虫剤の効きにくい“スーパー耐性蚊”の出現だ。国立感染症研究所によると、普通の野生の蚊を殺す量の1000倍のピレスロイド系殺虫剤を使わないと死なないという。ピレスロイドは蚊取り線香の有効成分であり、これまで蚊には極めて有効だった。スーパー耐性蚊は、遺伝子の変異によって生まれたと考えられる。
ニューヨーカーを襲ったアフリカの風土病
アフリカの風土病「西ナイル熱」が、1999年8月23日に米国ニューヨーク市内の住宅地に出現した。8人が感染して高熱や激しい頭痛など髄膜脳炎の症状を訴え、病院に運ばれたが、7人が亡くなった。その後、同市内では5歳から95歳の59人の患者が発見された。市衛生当局は、「急性西ナイル熱脳炎」が原因と発表した。
その後、首都ワシントンを含め全州に広がった。米疾病予防管理センター(CDC)によると、感染者は2022年末で5万6757人、死者は2776人に達した。米国内では社会に定着して風土病化し、さまざまなウイルスが関与する脳炎の中でも、最も多い病因となった。ワクチンが開発されなかったので、全米の感染者数は約700万人にまで広がったと推定される。ただし、感染した人の約80%は無症状だった。その後、流行は米国からカナダや中南米に拡大した。
ニューヨーク市で感染者が病院に運ばれている頃、市内の路上で何百羽というカラスの死体が散乱していた。ついで、野鳥や市内の動物園の鳥類、飼育されているウマなどの死が相次いで報道され、市民はパニックに陥った。死んだ鳥や動物からも同じ西ナイル熱ウイルスが分離され、それがヒトに感染したことが明らかになった。
西ナイル熱ウイルスは、日本脳炎などと同じウイルスの仲間だ。鳥から吸血するネッタイシマカやヒトスジシマカがウイルスを運び、それらの蚊に刺されることでヒトや動物に感染する。米国で感染が確認された鳥類はカラス、スズメなど220種類以上に及ぶ。なぜこの大都市に西ナイル熱ウイルスが侵入したかは謎だ。ニューヨークでの流行の直前にイスラエルとチュニジアで流行しており、そのウイルスが持ち込まれた可能性もある。
1937年にウガンダ北西部の西ナイル地方でウイルスが初めて発見されたことが病名の由来だ。これまでアフリカ、東欧、ロシアなどで集団感染が報告されている。日本では、2005年9月にロサンゼルスから帰国した30代の男性会社員が、国内初の西ナイル熱患者と診断された。
北上するヒトスジシマカ
米国獣医学会によれば、最も人を殺す野生動物は「蚊」だという。毒蛇、サメなどを押しのけて、「10大危険動物」のトップの座を維持している。毎年100万人もの人が、蚊の運ぶウイルスよって命を失う。英雄アレキサンドロス大王も1匹の蚊にかなわずマラリアで死んだ。蚊の生態を熟知していたはずの細菌学者・野口英世もネッタイシマカを介して感染する黄熱病に倒れた。
中でもネッタイシマカは黄熱病だけでなく、デング熱、西ナイル熱などのウイルスを媒介する凶悪犯だ。発病しても決定的な治療法がない。なぜ、熱帯性の蚊が大都市のど真ん中に出現したのだろうか。それは、都会には空き缶、古タイヤ、よどんだドブ、詰まった雨どいなど、水がたまってボウフラが発生しやすい場所がいくらでもあるからだ。日本では昔、墓参りのときに花入れに10円玉を入れた。こうすると水の中に銅イオンが溶け出して、ボウフラが生きていけないからだ。こんな先人の知恵も継承されなくなった。
しかも、ヒートアイランド現象で都市の気温が高くなって蚊にとっては住みやすい環境になった。以前は感染者の発生は7月中旬から9月上旬がピークだったのに、近年は12月にも発生するようになった。むろん、温暖化の影響も考える必要がある。環境省によると、デング熱を媒介するヒトスジシマカの分布は年平均気温11℃以上の地域とほぼ一致する。今後の地球温暖化で、分布域がますます広がりそうだ。
1950年当時、福島・栃木・茨城県の県境がヒトスジシマカの北限だった。それが、2010年には秋田・青森県でも生息が確認された。環境省の報告書は「2100年までには北海道まで生息域が拡大する」と予測する。
野外のスポーツやイベントが盛んになり、ヒトと蚊の距離が縮まってきた。加えてヒトやモノの行き来が盛んになり、蚊は容易に遠距離を運ばれるようになった。例えば、オーストラリアのダーウィン国際空港で、地元衛生当局がインドネシアからの定期便の機内を徹底的に調べたところ、1年間で5517匹の昆虫が見つかり、そのうち686匹は蚊だった。
米国の人気作家、カール・ジマーは『ウイルスの惑星』の中でこう記している。「蚊を媒介とするウイルスにとって未来はバラ色に見えるだろう。地球温暖化で彼らを取り巻く環境が暖かく湿ったものになるからだ」
人類への警鐘
米カリフォルニア大学のサイモン・アンソニーによると、これまで記載された病原性のウイルスは約5400種。だが、これはごく一部にすぎない。既知の約6万2000種の脊椎動物には、それぞれ固有のウイルスが寄生している。それから計算すると、ウイルスは少なくても約350万種はいてもおかしくないと彼はいう。動物由来感染症の候補には事欠かない。
米スタンフォード大学ウイルス学者ネイサン・ウルフはこう語る。「地球上のどんな辺地の村からでも、交通機関を乗り継げば48 時間以内にニューヨークに到達できる。50年後の人びとが現在を振り返った時、予防がいかに重要かを私たちが理解していなかったというだろう。このまま開発至上主義・人間中心主義で、環境や生態系の破壊をつづけていけば、その結果は必ず人類に跳ね返ってくる」
インフルエンザ研究の権威でWHO研究所長も勤めたロバート・ウェブスターは、「今後、スペイン風邪なみのパンデミックは再び起きるだろうか」という質問に対して「起きるかどうかではなく、いつ襲ってくるかの問題だ」と答えている。
(文中敬称略)
バナー写真:デング熱を媒介するヒトスジシマカ(Photo by Paul Starosta/Getty Images)
(シリーズ感染症の文明史:【第1部】コロナの正体に迫る【第2部】インフルの脅威【第3部】地球環境問題と感染拡大 完)