如意輪観音坐像:六田知弘の古仏巡礼(18)
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優美な仕草にうっとりしてしまう。
真言宗の名刹・観心寺(大阪府河内長野市)の如意論観音坐像(ざぞう)である。同寺は701(大宝元)年に修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開創したと伝わる。815(弘仁6)年に弘法大師・空海が厄除けのために本像を刻み、827(天長4)年から空海の十大弟子の一人である実恵(じちえ)と、その弟子・真紹(しんじょう)が伽藍(がらん)の造営に着手したという。
「観心寺勧録縁起資財帳」(883年作成、国宝)によると、如意論観音坐像は講堂に安置されていた。講堂は嵯峨天皇(786〜842)の皇后で、仏教を深く信奉した橘嘉智子(たちばなのかちこ、786〜850)が造営したという説が有力なので、本像も彼女の発願によるものと考えられている。
観心寺は、南北朝時代に活躍した武将・楠木正成(1294〜1336)の菩提寺(ぼだいじ)としても知られる。後醍醐天皇(1288〜1339)は忠義を尽くす正成を奉行とし、講堂を前身とする金堂を造営させた。現在、本尊・如意論観音坐像を安置する金堂も国宝に指定されている。
如意輪観音は観音菩薩の変化身(へんげしん=仏が衆生を救うために変化した姿)の一つで、願いをかなえる宝の玉「如意宝珠」と煩悩や迷いを打ち消す武器「法輪」を併せ持つことで「如意輪」の名を冠する。本像の六臂(ろっぴ=6本の手)は何人分もの活躍をすることを表している。頬(ほお)につく手、数珠を垂らす手、如意宝珠をのせる手、蓮華(れんげ)を持つ手、蓮華座を押さえる手、法輪を掲げる手が、それぞれリアルに造形されている。
この姿は空海が唐(現在の中国)から持ち帰った曼荼羅(まんだら)と一致することが指摘されているので、当時としては流行の最先端をいく観音菩薩のイメージだったのだろう。それまでの如意輪観音像とは異なり、密教独特の神秘的な雰囲気を醸し出している。
榧(かや)の一木造で、腕などは別材を合体している。表面に乾漆(漆に木粉や麻布を混ぜたものを塗り重ねる技法)を用いて、滑らかな肌合いを表現。長らく33年に1度しか開張されることのない秘仏だったため華麗な彩色が所々に残っており、全体として妖艶な印象を与える。
毎年4月17〜18日の2日間のみ一般公開される本像には、多くの人の目を引き付けるところがある。やや傾けた頭、ふくよかな顔に朱で彩られた唇、物憂げな半眼、立てた右膝…。なんともなまめかしい半跏(はんか=片足を他の足の上に組んで座ること)思惟(しい)像だが、品の良さがほんのりと伝わってくる。
皇后の発願で作られたとすれば、彼女がこの優美な姿を好んだのかもしれない。あるいは皇后自身がモデルだったとも考えられる。
如意輪観音坐像
- 読み:にょいりんかんのんざぞう
- 像高:109.4センチ
- 時代:平安時代
- 所蔵:観心寺
- 指定:国宝(指定名:木造如意論観音坐像)
バナー写真:如意論観音坐像。観心寺蔵 撮影:六田 知弘