仏像にまみえる

菩薩半跏像:六田知弘の古仏巡礼(10)

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スフィンクス、モナ・リザと並ぶ、「世界三大微笑像」に数えられる半跏思惟(はんかしい)像。飛鳥仏の最高傑作の1つと言われる国宝は、ほほ笑みの裏に多くの謎を秘めている。

幽遠なほほ笑みを浮かべる端正な顔立ちが、実にすがすがしい。

この菩薩像は、聖徳太子が母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)のために創建したと伝えられる尼寺・中宮寺(奈良県斑鳩町)の本尊だ。中宮寺は、法隆寺と共に聖徳太子が創建した7カ寺の1つ。現在、法隆寺東院に隣接するが、16世紀末まで500メートル東方にあった。その地は国史跡「中宮寺跡」になっており、昭和期の発掘調査で創建時の法隆寺と同じ瓦が出土している。そのため、本像も中宮寺の本尊として、飛鳥時代から祭られていたと思われる。

「半跏」とは片脚を組んだ座り方のこと。そして手を頬に当て、「人々をいかに救済しようか」と「思惟」している。こうしたポーズの仏像を半跏思惟像と呼ぶ。中宮寺では、寺伝により如意輪観音と称している。しかし野中寺(大阪府)の半跏思惟像台座の銘文に「弥勒像」とあることから、日本で製作された半跏思惟像は弥勒菩薩という説が有力となっている。中宮寺の本像がなぜ如意輪観音として伝わるのかいまだ謎に包まれている。

製作年代は、推古天皇(554〜628)から持統天皇(645〜702)の時代まで諸説あるが、現在では650年前後と考える説が有力である。ほほ笑む表現に堅さが見られず、飛鳥時代前期の仏像に見られるようなアルカイックスマイル(古典的微笑)から一歩進み、より人間的な表情に近づいているからだ。衣文(えもん)線も左右対称ではなく、比較的自由に表現されているのもその説を裏付ける。そうした観点から飛鳥時代後期、つまり白鳳(はくほう)時代の造像と考えられる。

霊木とされる樟(くす)を使った寄木造(よせぎづくり)である。部材ごと丁寧に仕上げて組み合わせていくことで繊細な美しさを生み出している。全身黒光りしているため鋼鉄で作られたような印象を受けるが、表面にと石を粉末状にした「との粉」に生漆を混ぜた「錆(さび)漆」が塗られ、その上に白土を重ねてから、さらに彩色されていたことが調査で分かっている。

裳(も)も朱色で、台座に掛かる布には截金(きりかね=金属の薄板を細かく切り、貼付して文様を施す技法)や緑青が施され、光背も金色に輝いていたと推測される。頭や腕にクギ穴の跡があり、宝冠や腕輪など豪華な装飾を身につけていたようなので、ひときわ鮮やかな仏像だったに違いない。

右足の裏に当時の肌の色が少し残っているものの、1300余年の間に色彩がすっかり失われてしまった。漆黒になった理由としては、錆漆の表面が燈明(とうみょう)の油煙でいぶされた説や、黒漆を塗り重ねた説などがあるが、真相は不明である。

謎多き菩薩像のほほ笑みは、そうした浮世の議論をたしなめているようにも思える。

菩薩半跏像(伝如意輪観音)

  • 読み:ぼさつはんかぞう(でんにょいりんかんのん)
  • 像高:132センチ
  • 時代:飛鳥時代~白鳳時代
  • 所蔵:中宮寺
  • 指定:国宝

バナー写真:菩薩半跏像(伝如意輪観音) 中宮寺蔵 撮影:六田 知弘

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