仏像にまみえる

聖林寺 十一面観音菩薩立像:六田知弘の古仏巡礼

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ミロのヴィーナスと比較され、天平仏の最高峰とたたえられる観音像。その美しさを見出したのは、米国の東洋美術史家アーネスト・フェノロサだった。

しなやかにたたずむ姿が、まぶしい。

「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり」

花が咲き乱れ、良い香りに包まれる頃のように隆盛を極めていると万葉集に歌われた奈良の都。そんな華やかな姿が、切れ長の厳かなまなざしに映っているのかもしれない。本像は、平城京(奈良)がきらびやかに輝いていた天平時代に製作された十一面観音菩薩立像である。観音菩薩のさまざまな救済能力を多数の顔で表している。

天平時代とは、奈良時代(710〜793)の中で仏教美術の最盛期を指す美術史的な年代区分である。奈良時代と同じ意味で捉える説もあるが、私は710年から783年までを天平時代としている。倫理学者の和辻哲郎は『古寺巡礼』の中で、760年代に製作された本像を「天平随一の名作」とたたえている。

この十一面観音は、もとは三輪山を御神体とする大神(おおみわ)神社の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)の本尊だった。奈良時代、神と仏の共存を図る目的で、日本固有の神と仏教信仰とを折衷して融合する「神仏習合」が始まった。その際に神社に付随して寺院を建立し、神殿には御神体として主に鏡や剣、寺院には本尊として仏像を祭ったのだ。

時代は下り、1868(慶応4)年、神宮寺であったため明治政府の神仏分離令によって廃寺となった大御輪寺は、親交のあった聖林寺にこの観音像を託した。1878(明治11)年、日本政府の要請で来日した米国の哲学者フェノロサは東京帝国大学で教える傍ら、日本美術の研究にも意を注いでいた。そんな彼が本像を調査した際、あまりの美しさに驚嘆し、いざという時に避難できるようにと車輪の付いた可動式の厨子(ずし)を寄進している。

当時、多くの仏像が廃仏毀釈(きしゃく)によって破壊されたり、捨てられたりした。フェノロサはその文化的価値を認め、仏像の保護に努めた。そうした努力が1897(明治30)年に古社寺保存法として実り、1899年、本像は同法によって国宝となった。さらに戦後、1951年に制定された文化財保護法でも第1弾で国宝に指定された。

木芯(頭部と体部が一材)に布を張り、その表面に木粉を漆に練り混ぜた木屎(こくそ)を塗って成型した木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)である。奈良時代後半に仏像を彫り出すのではなく、盛ってつくる技法によって、しなやかな指の表現などが可能になった。本像も頭髪を一本一本表現し、厚く盛った木屎漆によって衣文の襞(ひだ)のうねりを強調。頭部に奥行きを持たせ、全体として量感を生み出している。

この時代に製作された仏像のキーワードは。「写実の完成」である。写実とは主観を交えずにありのままに表現すること。飛鳥、白鳳(はくほう)と時代を経るにつれて、「彫刻」として完成度が上がり、天平時代になって本像のような写実的な仏像が作られるようになった。仏教も仏教美術も栄えた「奈良の都」にふさわしい仏像である。

十一面観音菩薩立像

  • 読み:じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう
  • 像高:209.1センチ
  • 時代:奈良時代後期
  • 所蔵:聖林寺
  • 指定:国宝

バナー写真:十一面観音菩薩立像 聖林寺蔵 撮影:六田 知弘

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