感染症の文明史 :【第2部】インフルの脅威

3章 鳥インフルウイルス:(4)ヒトに感染する豚インフルが出現

健康・医療 科学 環境・自然・生物

2009年、豚インフルが発生した。2010年に収束宣言が出されたが、わたしたちはさらなるインフルの脅威にさらされている。これまでたびたびパンデミックを引き起こしてきたA型インフルウイルスと戦うには効果的なワクチンが必要だが、いまだその開発には成功していない。

突如メキシコに現れた豚インフル

鳥インフルエンザ(インフル)ウイルスがヒトに感染する新たな可能性はあるのだろうか?

世界中が鳥インフルウイルスの振る舞いに気をもんでいる時、予想もしなかったインフルが意外な場所に現れた。2009年3月17日にメキシコ・ベラクルスで、次いで28日には米カリフォルニア州南部で、原因不明の呼吸器感染症が発生したのだ。実は、2月からメキシコの3カ所、米国の2カ所で局地的に発生していた感染症と同じものだった。

その後、疑われるケースが1000件以上も現れ、世界保健機関(WHO)は4月24日にブタ由来の新たな「H1N1」インフルの出現を報告した。4月27日にカナダで同様の症状をみせる感染者が見つかった後、英国、イスラエル、ニュージーランド、さらにはドイツ、オランダ、スイス、デンマークなどヨーロッパ各国でも次々にブタに由来するインフルの感染者が確認され、5月8には日本でも3人の陽性者が見つかった。

「A型」インフルウイルスの出現と流行の変遷

ブタ由来のインフルによる大量の死者の発生が各国で相次ぎ、世界的大流行(パンデミック)の段階に突入した。WHOは6月11日に「74カ国で2万人以上の感染者と141人の死亡者が出た」と報告、さらなるまん延は「避けられない」として、WHOは史上初めて警戒水準を最高位の「フェーズ6」に引き上げた。

だが、このインフルの名称は二転三転することになる。当初は、発生地をとって「メキシコ・インフル」、あるいはブタ由来の「H1N1」にちなんで「豚インフル」と称された。この名称は、豚肉から感染するという誤解を招くと批判され、日本では「新型インフル」に変更された。結局WHOは「パンデミックH1N1/09 ウイルス」に統一した。しかしあまりにも長いので、この稿では前章に引き続き「豚インフル」を使うことにする。

豚インフルウイルスの透過型電子顕微鏡写真(Photo By BSIP/UIG Via Getty Images)
豚インフルウイルスの透過型電子顕微鏡写真(Photo By BSIP/UIG Via Getty Images)

21世紀のインフル猛攻

米国疾病対策センター(CDC)によると、WHOが2009年4月に発生が発表されてから 収束宣言が出された2010年8月までに、感染者数は 4300万~8900万人、死亡者数は約8870~1万8300人に及んだ。一方で、米ジョージ・ワシントン大学のローン・シモンセンらの国際的な専門家グループが2013年に発表した推計では、世界で12万3000~20万3000人が死亡し、関連死まで含めると、この数字は40万人に跳ね上がるという。

2009年5月9日に日本で最初に確定した感染者は、成田空港の検疫で見つかった大阪の高校生2人と教諭の計3人で、カナダに短期留学中に感染したとみられる。新聞各社は5月9日付朝刊の1面トップで大々的に報じた。その後、5つの高校の生徒間で広がり、全国規模に拡散していった。国立感染症研究所が11月にまとめた推計値では、累計の感染者数は902万人に上った。未確認者も含めて死者は203人だった。

どうして鳥のインフルウイルスがブタに感染したのだろうか。この答えは中国南部にあった。農村では、アヒルやガチョウやブタが一緒に飼われているのをよく見かける。庭先には食用の淡水魚(家魚=かぎょ)を飼う池があり、その上に網をはって鶏を飼い、池では魚とともにアヒルやガチョウが落ちてくる鶏フンを餌にする。ブタも放し飼いにされ周辺をうろついている。この光景を見たとき、過去に発生したインフルパンデミックの多くが、中国南部に起源があることを確信した。こうした農村風景は東南アジア諸国でも見られるが、その接触の濃密度が格段に高いからだ。

「再び起きるか」ではなく、「いつ起きるか」が問題

「次なる豚インフルの脅威は常に存在する」と、WHOのテドロス事務局長はさまざまな場でこの発言を繰り返している。そして「再びパンデミックが起こるかどうかではなく、いつ起こるかが問題であり、私たちは警戒し、備えを強化しなければならない。大規模なインフル流行のコストは予防の経費をはるかに上回る」と警告する。

WHOは最悪の事態に備えるために「世界インフル戦略2019–2030」を実施している。目標は次なる豚インフルに匹敵するインフル対する予防策を「準備不足」から「準備万端」に変えることで、すべての加盟国と関連団体に対し、この戦略を優先的に実施するよう呼びかけている。

戦略では、各国があらゆる種類のインフルに対応して支援するように呼びかけている。150 以上のインフルの研究機関による協力体制の構築や、127の国や地域が加入する「世界インフル監視対応システム 」(GISRS)の強化拡大などが挙げられている。こうした国際協力で、世界のインフルワクチンの生産量が過去30年で15億回分から64億回分へと4倍に増えるなどの成果が上がっているという。

米国の苦い経験

WHOには、「幻のスペイン風邪騒動」という苦い経験がある。一部に根強く存在するWHOや研究者に対する不信感が生まれた原因の1つだ。1976年2月に米ニュージャージー州のディクス基地で、19歳の二等兵が訓練中に体調不良を訴え翌日亡くなり、他にも基地内で12人が発症したものの他に死者は出なかった。この原因がスペイン風邪と同じ「H1N1」と診断されたことから、スペイン風邪の亡霊として世界的な大騒動を引き起こした。

フォード米大統領(当時)はWHOなどの専門家の警告を受けて、保健当局に全国民を対象にした予防接種の実施を命じた。1億3500万ドルという巨費を投じた史上最大のワクチン作戦だった。ところが、接種開始後数週間もたたないうちに、「接種直後にギラン・バレー症候群(GBS)を発症した」という苦情が殺到した。CDCによると、約500人が発症して、30人以上が死亡した。重症の場合、この病気は中枢神経の障害から呼吸困難を起こして死に至ることもある。ワクチン接種の副作用としてGBSが増えることは分かっているが、どうしてそうなるのかまだ不明な点が多い。

1976年3月24日、ワシントンDCのホワイトハウス記者会見室で、全国的なインフル予防接種プログラムを発表するフォード大統領(Photo by Ricardo Thomas/Gerald R Ford LIbrary/PhotoQuest/Getty Images)
1976年3月24日、ワシントンDCのホワイトハウス記者会見室で、全国的なインフル予防接種プログラムを発表するフォード大統領(Photo by Ricardo Thomas/Gerald R Ford LIbrary/PhotoQuest/Getty Images)

最終的に約4000万人が予防接種を受けたが、インフルの流行はなかった。死者は不運な二等兵ひとりだけだった。調査の結果、スペイン風邪よりはるかに致死性の低いウイルスと判明した。ワクチン接種の反対運動が広がり、2カ月足らずでプログラムは中止に追い込まれた。反対派は、「今年行われる大統領選挙を意識して、大統領は票田である製薬会社の言いなりになった」と批判した。結果的には大統領は選挙に敗れた。この事件が起きてから、米国でワクチンへの不信感が広がった。

新型コロナでワクチンの反対運動が全国的に展開されたのは、この事件があったからだと言われている。最近の調査では米国民の4人に1人はワクチン接種を拒否している。日本では1割程度とみられる。

パンデミックが発生する確率は今後3倍に

幻のスペイン風邪騒動は、インフルウイルスが一筋縄ではいかない存在であることを物語っている。今後、インフルウイルスとヒトとの関係はどうなるのだろう。一部の疫学者は感染力が低い形で今後とも流行が続いていくと予測、また他の研究者は新たなA型インフルウイルスに起因するパンデミックが近いうちに発生すると断言する。しかし、上空を見上げれば、鳥インフルウイルスを抱えた渡り鳥が飛んでいる。身の回りを見わたせば、ペットや家畜やネズミにまでにまで宿主が広がっている。これだけウイルスの「隠れ家」が広がってしまえば、根絶が困難なのは容易に分かる。

米デューク大学のマイケル・ペンが過去400年間の感染症の発生頻度を調べたところ、新型コロナと同程度のパンデミックが発生する確率は、今後数10年間で3倍に増加するという。次章で述べるように、人口増加、食糧生産システムの変化、環境悪化、病気を媒介する動物との接触頻度の増加などパンデミック発生の危険因子は身辺に満ち、しかも将来的には増えていくことが予測される。

「環境変化が病気の出現にどのような影響を与えるかを理解することが重要だ」とペンは指摘する。近年発生した動物由来感染症のほとんどは、ヒトによる自然破壊が原因であることを示唆する研究結果が数多くある。今後、ますますヒトの活動が生態系に重圧を掛け続けることを考えると、近いうちにパンデミックが襲来する事態は避けられないだろう。ヒトはこれからもパンデミックと戦わなければならない。対等に戦うにはインフルに対する効果的なワクチンが必須だ。世界各国でその研究・開発が進められているが、まだ希望が見えてこない。

ドイツのベルリンにあるベルリン・ブランデンブルク研究所で行われた、豚インフルを引き起こすH1N1ウイルスの臨床検査 。2014年8月14日撮影(Photo by Andreas Rentz/Getty Images)
ドイツのベルリンにあるベルリン・ブランデンブルク研究所で行われた、豚インフルを引き起こすH1N1ウイルスの臨床検査 。2014年8月14日撮影(Photo by Andreas Rentz/Getty Images)

(文中敬称略)

バナー写真:インドのムンバイで、豚インフルへの感染を避けるためにマスクを着用する女子生徒。2010年撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Imtiyaz Shaik/Anadolu Agency/Getty Images)

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