感染症の文明史【第2部】インフルの脅威

2章 スペイン風邪:(3)日本での第1波は台湾巡業中の力士から、第2波はヨーロッパ戦線から

健康・医療 歴史

スペイン風邪の猛威は日本にも襲いかかった。当時の記録では国内の感染者は2380万人を超え、死者の合計は約39万人に達したとあるが、それ以上だという推定もある。いずれにしても日本の疫病史上で最悪の感染症だ。

相撲取から始まったスペイン風邪の流行

日本におけるスペイン風邪流行の発端は、「台湾巡業中の尾車部屋の真砂石(まさごいわ)ら3人の力士が1918(大正7)年4月に謎の病気により急死した」というニュースだ。そして、東京朝日新聞の5月8日付紙面にこんな見出しの記事が載った(以下、現代語表記)。「このごろ流行(はや)る相撲風邪。力士枕を並べて倒れる」。続けて「友綱部屋では10人ほどの力士が、時代劇で病に伏せた殿様が頭に巻く〈頭痛鉢巻き〉姿で、ゴロゴロしている」と描写している。

当時の正式名称は「流行感冒」だが、一般的には「相撲風邪」とか「力士病」と呼ばれることになった。日本でのスペイン風邪の流行は「第1波(1918年8月~19年7月)」「第2波(1919年9月~20年7月)」「第3波(1920年8月~21年7月)」に分けられる。世界的な傾向と同じで「第1波」に比べて「第2波」は毒性が強く、致死率が約4.5倍も高かった。当時の新聞報道などをもとに、その経過を追ってみる。

高知市内の各地で発生したスペイン風邪の第1波の流行を伝える1918年10月31日付の高知新聞紙面(共同)
高知市内の各地で発生したスペイン風邪の第1波の流行を伝える1918年10月31日付の高知新聞紙面(共同)

日本での第2波は、1918年にヨーロッパ戦線に侵入して毒性の高まったスペイン風邪ウイルスが帰還兵などによって拡散し、日本に上陸したことによって引き起こされた。流行は1919年9月上旬から始まり、10月上旬には軍隊や学校を中心に全国に広がった。同年10月4日付の紙面には、「鯖江第36連隊(福井県)の流行感冒患者は200余人になり、連隊は外出や面会を一切禁止した」とある。

さらに16日付の紙面には、「愛媛県大洲(おおず)町(現・大洲市)で流行感冒が大流行し、600人の患者がいる。中学校と高等女学校の生徒多数がかかり、1週間、39度から40度の熱が出た」とある。患者は10歳以上30歳以下に集中していた。10月24日になると、「最近東京を襲った感冒はますます流行し、どの学校でも数人から数十人が休んでいる」と感染の拡大が報じられた。

25日付の紙面には、「西班牙(スペイン)感冒病勢熾烈(しれつ)なる地方に在りては遂(つい)に諸学校の授業をも中止せる処(ところ)あり。流行各地に向かって防疫官を派遣。一高生五十名発病」と学校での流行を伝えている。このように10月には全国に拡大して、11月には患者数、死亡者数とも最大に達した。同時に世界での感染状況も報じられるようになった。

1920年2月3日付の紙面では、「入院皆お断り。医者も看護婦も総倒れ」の見出しで第2波のすさまじさを伝えている。「世界の何処(どこ)へ逃げても隠れ場のないと云(い)う恐ろしい世界感冒は一時屏息(へいそく)の模様であったが、昨今又復(またまた)病魔はその手を拡(ひろ)げ益(ますます)猖獗(しょうけつ)を極めて居(い)る。患者は殖(ふ)える一方、医師にも伝染する。看護婦が斃(たお)れる」。

東京はパニック状態に陥り、多くの市民が逃げ出した。2月19日付の紙面には「熱海は感冒避難客でどこも満員で、客が布団部屋まであふれている」とある。さらに6月14日付の紙面には「悪性流行感冒がひどかった時には棺おけが積み上げられ、名前と遺体の違うものもあった」と当時の悲惨な状況が描かれている。

第2波は1920年7月には下火になったかにみえた。ところが、8月から第3波の流行が始まった。1921年1月11日の紙面には「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。せき1つでも出る人は外出するな。その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」と警告が載った。この頃、マスクの不足が社会問題になっており、「感冒流⾏に乗じ⼝蓋(マスク)の⾺⿅値上」という見出しの記事が載った。1つ20銭ほどで売られていたのが、80銭まで高騰したと報じ、「奸商(悪徳商⼈)の仕業で当局の相当の仕置きが必要だ」と説いている。

1月11日付の紙面には「流感悪化し工場続々閉鎖」、さらに16日付には「銭湯、寄席、映画館、理髪店は流感にたたられて客がめっきり減った」とある、1月22日付の紙面には、東京・砂村(現・江東区)の火葬場のルポも載り、「開所以来最高の223のひつぎが運び込まれ、午後9時の終業時間を過ぎても作業に追われた」とある。23日付の紙面には「交通通信に大たたり。市電も電話局も欠勤者ばかり」と社会が麻痺(まひ)状態に陥っていく様子を伝えている。

これらの記事は大都市が中心だが、離島でも凄惨(せいさん)な状況になっていた。「北海タイムス」(1921年6月6日付)は、当時は日本領だった択捉島(現・北方四島)の東海岸の留別(るべつ)村周辺で起きた流行を、「死体を原野に運び山積して火葬す」という見出しで報じている。当時、人口が236万人だった北海道でも1万人以上の死亡者が出た。「百名余の村民枕をつらね、片っ端より死亡しゆく有様(ありさま)にて、村医の所在地たる留別も同様の状態に陥り、亭主が死亡し、1時間後にその妻が逝(ゆ)き、子供が危篤という惨事を頻発し、村医も感染し行動の自由を失い(後略)」と伝えている。感染がまん延して政府に緊急対策を要求する世論が高まったものの、対策は注意するよう呼びかけるか、マスクをするか外出を控えるぐらいしかなかった。

猛威を振るった第2波

以下の数字は、政府の公式記録である内務省衛生局(厚生労働省の前身)が1922年に編纂(へんさん)した『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』からの抜粋である。

日本におけるスペイン風邪の被害状況

第1波(1918年8月〜19年7月)

  • 患者数:約2117万人
  • 死者数:約26万人

第2波(1919年9月〜20年7月)

  • 患者数:約241万人
  • 死者数:約13万人

第3波(1920年8月〜21年7月)

  • 患者数:約22万人
  • 死者数:約0.4万人

合計(1918年8月〜21年7月)

  • 患者数:約2380万人
  • 死者数:約39万人

出典;内務省衛生局『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(1922年編纂)

第2波の流行時の死亡率は第1波よりも大幅に上昇している。欧米の流行と同じように、ウイルスが強毒化したためだ。上記の内務省衛生局の記録では「第2波の患者数は第1波に比べて10分の1弱だったが死亡率が非常に高く、3~4月には10%以上にものぼり、第1波の約4.5倍だった」と解説が付けられている。総数では、国内の感染者は2380万人を超え、死者の合計は約39万人に達した。記録に残るかぎり、日本の疫病史上で最悪のものだ。

ただ、この数字は一部府県のデータの欠落があり、歴史人口学者、速水融(はやみ・あきら、1929~ 2019年)は『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ:人類とウイルスの第1次世界戦争』の中で、インフルエンザ流行時に死亡率が平年より高くなる「超過死亡」から計算して、死亡数は45万人に上るだろうとしている。

この他にも、死者数は40万~48万人までさまざまな推定がある。死亡者の年齢分布は、欧米と同じく5歳未満が高く、男子では30~34歳、女子では25~29歳という若者にピークがある。これが季節性のインフルエンザと大きく異なるところだ。

当時はどの家庭にも病人がいる始末だった。芥川龍之介の短編小説『点鬼簿』には、芸者と食事をしていて、インフルで危篤状態に陥った父親のことが心配になって病院に駆け付けるシーンがある。不思議なことに、当時の新聞を検索してみても、スペイン風邪対策に対する政府批判はほとんど見当たらない。公衆衛生が政府の責務であるという認識がまだ薄かったためかもしれない。

ひとり気を吐いたのは歌人の与謝野晶子だった。晶子は「感冒の床から」と題した評論で、「(中略)政府はなぜ(スペイン風邪の感染拡大防止のため)多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」と政府を批判した。11人の子どもの母親だった彼女は、家族が次々と倒れたことからこんな歌を残した。

冬はインフルエンザとなり/喘息(ぜんそく)となり/気管支炎となり/肺炎となりて/親と子と八人を責(せ)め苛(さいな)む

1922年になると、さしものインフルエンザも嘘(うそ)のように去っていった。1月6日付の紙面には「国を挙げて戦々恐々の春を迎えたが、幸い今年はまだその魔の手がのびない」と、当時の安堵(あんど)感を伝えている。

2章 スペイン風邪:(4)永久凍土から現れたウイルスの正体 に続く

バナー写真:スペイン風邪の感染を防ぐためマスクをつけて通学する日本の女子学生(Photo By Bettmann  Via Getty Images)

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