2章 スペイン風邪:(1)第1次世界大戦中に起きたインフル大爆発
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インフルウイルス海中起源説に従えば、ウイルスは何億年もさまざまな宿主の間をさまよっていたのだろう。ついに水鳥やブタを介して、ヒトという快適な環境に行きついた。ここでもさまざまに変異を繰り返し、1918年に「スペイン風邪」というインフルエンザ(以下、インフル)の大爆発を起こすまでになった。
大爆発は、ヒトが第1次世界大戦を戦っていた最中に起きた。愚かなヒトの営みをあざ笑うかのように、インフルウイルスは地球のすみずみにまで感染を広げ、史上最悪のパンデミック(世界的大流行)を引き起こした。当時の人びとは、原因も分からないままに、神の怒りとして恐れおののくしかなかった。その後、人類は4回のインフルパンデミックを経験したが、いずれもスペイン風邪ウイルスから派生したものだ。そこからスペイン風邪は「全てのパンデミックの母」と呼ばれるようになった。
ブタの体内で変異してヒトに感染
米国陸軍の基地を訪ねると、その基地から出征して戦死した兵士や英雄の記念碑をよく見かける。米国カンザス州ハスケル郡のライリー軍事基地には、オベリスク型の変わった「インフルエンザ流行記念碑」がある。第1次世界大戦中に、スペイン風邪で戦病死した医療従事者の功績をたたえた石碑だ。
感染症の流行では、最初の感染者である「ゼロ号患者」、つまり流行の震源地を見つけ出すのが対策の基本である。だが、なかなか大変な作業だ。新型コロナをめぐっても、米国の一部で主張される武漢ウイルス研究所からの流出説を中国政府は頑なまでに否定し、逆に訪中した米国人が持ち込んだと主張して両国間で激しい応酬があった。
スペイン風邪の感染が始まった当時、ライリー基地はファンストン基地と呼ばれていた。1914年に第1次世界大戦が始まり、3年後の4月に米国が参戦した。このとき、同基地はヨーロッパ派遣軍の演習地だった。ここに多くの兵士や医療関係者が滞在し、ヨーロッパ戦線に送り出された。米国の環境史家アルフレッド・クロスビーは著書『史上最悪のインフルエンザ』 で、スペイン風邪のゼロ号患者が出たのはファンストン基地だと述べている。1918年3月に基地内の診療所に発熱や頭痛を訴える500人もの兵士が殺到したのが、米国でのスペイン風邪騒動の幕開けだと主張している。
最初に発病した兵士は、ブタの飼育担当といわれる。この一帯はカナダガンの大群が飛来する越冬地としても知られる。もともとガンが保持しているインフルウイルスが糞(ふん)などを通じて豚に感染し、それがブタの体内で変異してヒトに感染するようになったとする感染ルートが考えられてきた。
一方、米国の科学史家のジョン・バリーは著書『グレート・インフルエンザ』 で、カンザス州ハスケル郡で最初の感染者が見つかったと主張する。ライリー軍事基地から西に約400キロの町だ。1918年1月下旬から2月上旬にかけて、地元のローリング・マイナー医師が診察した劇症性肺炎患者が、スペイン風邪だった可能性が高いと記している。このとき18人が発病して3人が死亡した。
マイナー医師の公衆衛生局への報告ではこう述べられている。「最も屈強で健康な農村の若者が、まるで銃で撃たれたかのように突然倒れ、肺炎を重症化させて死んでいった」。地理的、時間的にみてファンストン基地とハスキル郡でのインフルは、同一の感染源と考えてよさそうだ。農業地帯のカンザス州のどこかでブタから感染して、徴兵された兵士とともにファンストン基地に運ばれた、とみる専門家が多い。
さらにウイルスは基地内にとどまらなかった。戦時において基地間のヒトの往来は激しく、たちまち他の基地にも感染が広がった。バージニア、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ、アラバマ、カリフォルニアなどの各州でも、軍の施設で同様の事態が報告された。東海岸の港に停泊している海軍艦艇でも乗組員の間で感染者が出た。
4月末までに米国内に36ある陸軍主要基地のうち、24カ所でインフルの流行が確認された。9月末には基地のインフル感染者の総数は、8万8000人となり、死亡者数は900人近くに達した。軍の基地は典型的な「三密」の環境である。しかも、地方育ちでウイルスや細菌への免疫がない同世代の若者が密集して暮らしている。この均一状態はウイルスにとっては感染を広げやすい格好の温床となった。
米国は1917年4月の宣戦布告とともに、延べ470万人もの兵士をヨーロッパ戦線に送り込んだ。彼らから他国軍や一般市民の間に感染が広がるのは時間の問題だった。やがてフランスの港で流行し、続いて西部戦線で感染者が出た。その後、英国、イタリア、スペインへと急速に広がり、5月には現ウクライナのオデッサに達した。
一方、インフル研究の権威で英国のレトロスクリーン・ウイルス研究所長だったジョン・オクスフォードは、フランス起源説をとっている。第1次大戦中に北フランスのエタープルという小村に英国軍の駐屯地があり、連合軍の将兵が多いときには12万人前後が駐留していた。基地近くには渡り鳥が生息する湿地帯があり、周辺にはブタ、アヒル、ガチョウなどを飼育する農家が点在していた。
当時の地元の医師が残したカルテによると、米国で発生した2年前の1916年12月にインフルエンザに酷似した症状の兵隊が入院してきたという。その後一気に感染が拡大し、翌年2月21日には最初の死者が出た。オクスフォードは、亡くなった英国陸軍の1等兵をゼロ号患者と考えた。その後、地元医師は英国の医学専門誌ランセットに「異常に死亡率が高い感染症で、死亡率は戦闘時の2倍にも上る」とする論文を寄稿した。
中国起源説も登場
近年になって、スペイン風邪の起源が米国だという説、フランスだという説に続く第3の説が登場した。今度は中国起源説だ。カナダ・ニューファンドランド・メモリアル大学のマーク・ハンフリー教授は2013年、第1次世界大戦中に、英仏軍が西部戦線で9万6000人の中国人労働者を使っていた史実を“発掘”した。参戦国は戦線拡大とともに労働者不足に陥り、その補充が目的だった。
中国人労働者は1917年に太平洋を渡り、カナダ経由でヨーロッパ戦線に送られた。ハンフリーは、中国北部では米国の流行以前の1917年から18 年の冬にかけて、数回にわたって呼吸器感染症の流行があったと指摘。中国の保健当局はこの呼吸器感染症を後にスペイン風邪と特定したとする報告書を提出したとしている。その報告書には、10代から20代の若者に感染者が集中していたことが記されていた。そうした史実を踏まえ、ハンフリーは彼らがウイルスをヨーロッパに持ち込んだと推測した。この説の支持者は、人口に比べてスペイン風邪の死亡率が中国で低かったのは、この流行で免疫ができていたからだと主張している。
その後のインフルの感染史でも中国起源とされるものは多い。「アジア風邪」(1957年)、「香港風邪」(1968年)、「ソ連風邪」(1977年)などだ。ファンストン基地で発生したものも、「基地で契約労働者として働いていた中国人が、1918年3月初旬にインフルを発症して兵士に感染させた」と主張する研究者もいる。フランスのエタープル基地でも中国人やベトナム人の労働者が働いていて、彼らが感染源とする説がある。中国の科学者や政府は、事実に基づかない偏見が中国をスケープゴートにしていると反論する。
新たな震源地説が登場
これまで以上の3カ所が「震源地」とされてきた。しかし、過去100年の間に多数の研究者がスペイン風邪の研究に加わって、多くの新事実が掘り起こされている。その1人、米アリゾナ大学マイケル・ウォロベイらの近年の研究によって新たな説が登場した。
ファンストン基地で流行が始まる以前の1915年頃から、ニューヨーク市で高病原性(強毒性)のウイルス感染症が流行して、若年の死亡率が上昇していた事実をウォロベイらは死亡統計から突きとめた。記録に残る症状や毒性は、スペイン風邪に酷似していた。軍隊や学校のような集団組織では健康異常者は容易に見つかるが、大都会にはびこる感染症は疫学など統計的手法で突き止めるしかない。
一方、英国最南端のオルダーショット基地で、エタープル基地での感染とほぼ同時期に「インフルエンザ肺炎」と診断された兵士が見つかっている。オルダーショット基地は、英仏海峡をはさんで、エタープルのほぼ対岸にある大規模な英国陸軍の駐屯地だ。どちらが先だか不明だが、この他にも、英国陸軍の上層部には「重篤で短時間に死亡する気管支炎が兵士の間で発生している」とする報告が上がっていた。
散発的にせよ、1916年から17年の冬にかけて欧米で感染者が出たことからみて、米、仏、英で同時に流行が始まっていた可能性が高いと、ウォロベイは指摘する。この冬は日本を含め世界的に記録的な異常寒波が襲来した。特にヨーロッパ戦線ではこの冬将軍が兵士を苦しめた。これが流行を後押ししたのではないかとも考えられている。
もしもそうだとすると、スペイン風邪の起源は大きく塗り替えられることになる。スペイン風邪ウイルスはカンザス州で患者が出たとされる以前からヒトの間を循環していて、それがたまたま第1次世界大戦でヒトの動きが激しくなって感染爆発を起こしたとも考えられる。
(文中敬称略)
2章 スペイン風邪:(2)世界大戦を終結させたインフル に続く
バナー写真:1918年のスペイン風邪の大流行中、カンザス州ファンストン基地内の救急病院で簡易ベッドに横たわるインフルエンザ流行患者(共同)