感染症の文明史 :【第2部】インフルの脅威

1章 インフルウイルスの履歴書:(2)人類の行動範囲の広がりとともに世界各地に感染が拡散

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16世紀からインフルエンザは世界中で繰り返し猛威を振るった。日本も例外ではなく、歴史書や文学書にその記録が残されている。18世紀の産業革命以後、国を超えた往来が盛んになるのにつれて感染範囲が拡大し、そのスピードも加速していった。

16世紀に世界中を襲ったインフル

1510 年にもインフルエンザの流行があったことが、ドイツの医師ユストゥス・ヘッカー(1795~1850年)が執筆した医学百科事典に掲載されている。彼はペスト、天然痘などの感染症を研究し、感染症史(疫病史)の研究を確立したことでも知られる。同時代の年代記作家は、病気が北アフリカに出現して、貿易ルートに沿って中東に広がり、エルサレムやメッカなどの都市を中心にまん延して、そこからヨーロッパに侵入したとしている。

イタリアでは、マルタから商船が到着した直後から患者が現れ始めた。国内各地に飛び火して、教皇ユリウス2世は「感染の拡大は神の怒りによるものだ」と語った。さらに神聖ローマ帝国から北ヨーロッパ、バルト三国に向かって北上し、フランスと英国も流行に巻き込まれた。最盛期には、1日あたり最大1000人のパリ市民が死亡したという。

1557 年には、オスマン帝国から交易路に沿ってヨーロッパやアフリカに感染が伝わったインフルは北米から南米大陸に達した。このインフルは感染力が非常に強く死者数も多かった。パンデミック(世界的大流行)は断続的に数年にわたって続き、ヨーロッパの死亡率が急上して、世界のほぼ全大陸にまん延した。イタリア、英国、フランス、オランダ、スペインなどに、これまで経験したことのない大きな被害をもたらした。

イングランドの 100 以上の教区について調査したデータによると、最大 60%が死亡した教区があった。ロンドン市内だけで8000人以上が亡くなった。スコットランドでは女王メアリーと宮廷全体がインフルで倒れた。多くの農民が死亡して穀物が収穫できなくなり、翌年は第2波襲来に加えて食糧不足が社会や経済の混乱を巻き起こした。医学史家によると、おそらく歴史上初めて政府が専門家を招き、官僚組織を動員して防疫対策をとった感染症だという。

1580年には別のパンデミックがアジアで始まり、シルクロードに沿って中東を経由してヨーロッパとアフリカに広がった。その6週間後には米国に飛び火した。このパンデミックについては多くの記録が残されており、ヨーロッパ全土にまん延し、死亡率が高かったことが分かる。大航海時代を迎えヨーロッパでは新たに確立された海上交易路と軍隊の移動がウイルスの世界的な拡散につながり、インフルの流行でスペインのいくつかの都市では人口が激減した。

1588年、インフルが再びイングランド、アイルランドを襲った。「全ての場所で人々は疫病におののいていた」と記された文献もある。変異したと思われるウイルスが 93 年にさらにヨーロッパと米国を襲い、パンデミックを引き起こした。特にボストンでは感染がほぼ全ての家庭に広がり、逃げおおせた者はほとんどいなかったという。

18〜19世紀には12回ものインフル・パンデミック

1729年にもインフルの流行が始まり、その年の春にロシアから西側諸国へと広がっていった。6カ月でヨーロッパ全土に感染が拡散し、その後3年間にわたって世界中を席巻した。何回かの流行の波があり、第1波より第2、第2波より第3波と死亡率が高くなり、人類の3分の1が感染したといわれている。

約50年の間隔を置いて、1781~82年に次の世界的流行がやってきた。流行は中国から始まり、ロシアを経て10カ月後にヨーロッパに達した。流行の最盛期には、ロシアのサンクトペテルブルクで毎日約3万人が、ローマでは全人口の3分の2が、英国では全人口の7割が発病したという。

さらに1830年から 1848 年の間に4回のインフルの大流行があった。1830~31年の流行も中国から始まった可能性が高い。そして33年にはロシアから西に進んでヨーロッパに侵入。36~37年には、今度は北から南に進み、47~48年に地中海を通って南フランスに広がった。そこから西ヨーロッパの他の地域にも拡散し、ヨーロッパのほぼ全域で感染者が出た。この大流行のさなか、ショパン(1810~1849)は32、37年と2度インフルエンザにかかった。この時期に作曲した「木枯らし」の起伏に富む曲想は、インフルの苦痛によって生まれたという説もある。

アントニ・ラジヴィル王子のリビングルームでピアノを弾くショパン。フレデリック・ショパン博物館蔵(Photo by DeAgostini/Getty Images)
アントニ・ラジヴィル王子のリビングルームでピアノを弾くショパン。フレデリック・ショパン博物館蔵(Photo by DeAgostini/Getty Images)

特にロンドンでは、1832~33年に4000~7000人の犠牲者を出したコレラの流行よりも、1847 ~48 年のインフルエンザでの死亡者数の方が多かったといわれる。18~19世紀には世界で25回のインフルの流行があり、このうちの12回はパンデミックだったと考えられる。

さらにこうしたパンデミックとは別に、1889~90年にロシア南部から感染が始まった「ロシア風邪」が全世界に広がり、推定100万人以上の死者が出た。ロシア風邪はこうしてスペイン風邪以前に起きたパンデミックとしては最大規模のものとなった。しかし近年の研究では、ロシア風邪はインフルウイルスではなく、コロナウイルスによって引き起こされた可能性が高いということが明らかになりつつある。

日本でもインフルが大流行

日本でも室町町時代からインフルエンザとみられる感染症に襲われた記録が残っている。最も古い記述は、『三代実録』という歴史書の中で、京城および畿内外において流行したことが記されている。この書は文徳天皇に続く清和・陽成・光孝の3代、858(天安2)年8月から887(仁和3)年8月までの歴史を編年体で記した勅撰(ちょくせん)国史である。

この中で872(貞観14)年の記載には「一月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆…」「正月、自去年冬末、至于是月、京城及畿内畿外、多患咳逆、死者甚衆矣」と記されている。「昨年の冬から、京都、山城、大和、河内、摂津の和泉五カ国の内外で咳逆(がいぎゃく)がはやって、死者が多数でている」といった意味だ。

咳逆とは何か。わが国に現存する最古の医学書『医心方(いしんぽう)』(984年)では、咳を伴うインフル様の疾患とし、「咳逆」という言葉を「之波不岐」(シハブキ)と訓読している。また、感染症の専門医で医学史家の角田隆文は、『源氏物語』(1008年)の「夕顔」の帖(じょう)に、「この暁より〈しはぶき〉やみに候らん、かしら(頭)いと痛くて苦しく侍れば…」とあり、咳逆はインフルに似た症状を示していると指摘している。

平安後期の歴史物語『大鏡』(1010年)では「一条法王が〈しはぶき〉やみ(病み)のため37歳で死去された」とある。『増鏡』(1329年)でも、「今年はいかなるにか、〈しはぶき〉やみ(病み)はやり(流行)て、人多く失せたまうなかに…」と、インフル似た症状のしはぶきよって多くの死者が出たことが記述されている。

江戸時代になると、インフルは何度か全国的に猛威を振るったようだ。1716(享保元)年、江戸の町で流行した風邪はインフルエンザと推定され、ひと月で8万人以上が死亡したという。当時の記述では、「火葬をすることが間に合わず、貧乏人の遺体は菰(こも)に包み品川沖で水葬にした」とある。

面白いのは、そのときどきの世相を反映して、「お七かぜ」「お駒風」「谷風」などと流行に名をつけていたことだ。「お七かぜ」は恋の果てに放火事件を起こした「八百屋お七」。「お駒風」は浄瑠璃に登場する運命に翻弄された幸薄い女性「城木屋お駒」。「谷風」の谷風は大相撲史上屈指の大横綱で、「オレが倒れるのを見たかったら、かぜにかかったときに見に来い」と豪語していた。しかし皮肉なことに1795(寛政7)年、江戸全域で猛威を振るったインフルにかかって、35連勝中のさなかに現役のまま44歳で没した。

江戸時代に起きた感染症を詳細な記録に残したのは、『南総里見八犬伝』などの長編小説で有名な江戸後期の作家・曲亭(滝沢)馬琴だ。馬琴の随筆集には、1825(文政8)年年9月ごろから「感冒」が大流行し、江戸から京都、大坂、長崎などに拡大したことが記されている。「一家十人なれば十人皆免るる者なし」というほど強い感染力だった。翌年には、「第二波」の流行があった。

当時の人びとの関心は、感染源はどこかということだった。当時の「はやり風 十七屋から ひきはじめ」という川柳が、その事情の一端を物語っている。「十七屋」とは日本橋瀬戸物町にあった飛脚問屋。東海道を行き来する飛脚が感染を広げたといった皮肉が込められている。

開国後の幕末、欧米との往来が盛んになってさまざまな感染症に見舞われるようになる。コレラ、天然痘、ハシカなどもこの時期に集中して流行している。正確な記録はないが、当時はこうした移入感染症で毎年10万人単位の死者が出たといわれる。1854年に流行したインフルは、「アメリカ風」と呼ばれるようになった。1853年のペリーの来航によって持ち込まれたと、当時の人びとが信じたことがこの命名になったのだろう。

18世紀の産業革命以後、人類の行動範囲が拡大し、国を超えた往来が盛んになるのにつれて、インフルウイルスもその経路を伝わり、世界各地で流行を繰り返すようになっていく。そうしてインフルは、1918年に史上最大の感染爆発「スペイン風邪」を引き起こすことになるのである。

第2章では、スペイン風邪の猛威について記す。

(文中敬称略)

2章 スペイン風邪:(1)第1次世界大戦中に起きたインフル大爆発 に続く

バナー写真:英国カーボリックスモークボール社の1892年の広告。カーボリックスモークボールは、ゴム製のボールに入った風邪の予防薬を鼻から吸引するもの(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Hulton Archive/Getty Images)

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