1章 インフルウイルスの履歴書:(1)海で発生し、上陸して人類を襲う
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インフルウイルスは海で発生
インフルエンザ・ウイルス(以下、インフルウイルス)の先祖をたどっていくと、6億年前の魚に行き着く可能性があるとする学説が、2023年5月、ロンドンを拠点に英語版、米国版、オーストリア版を発行する週刊科学雑誌に発表された。外観がウナギに似たヌタウナギやキャビアで有名なチョウザメからから見つかったウイルスが、その先祖ではないかという仮説だ。いずれも、「生きた化石」といわれる古代生物である。
発見したのは、シドニー大学の研究チーム。魚類の遺伝子データベースでインフルウイルスに関連したウイルスを検索したところ、2018年にヌタウナギの腸から、インフルウイルスの祖先とみられるウイルスを発見した。ヌタウナギは体長60センチほどの海洋動物で、厳密には魚ではなくヤツメウナギに近い円口(えんこう)類の生物とされる。韓国ではふつうに食べられ、日本国内でも一部地域では食用にされている。体表からヌルヌルした粘液を大量に分泌するので、この名が付けられた。ヌタウナギは脊椎動物の初期系統の子孫であり、インフルウイルスが脊椎動物とともに進化したことが考えられる。
その後、シベリアチョウザメの腸からも見慣れないウイルスを発見した。その遺伝子配列を、既知のウイルス遺伝子データベースと照合したところ、配列がインフルウイルスとよく似ていた。研究チームのメアリー・ペトローネは、「チョウザメのウイルスは現在のインフルウイルスと同じ配列だというだけでなく、理論的に予測した祖先の遺伝子配列とそっくりだった」と述べている。ヌタウナギとチョウザメから見つかったウイルスと照合すると、2つのウイルスは遺伝的に25%が一致した。
ペトローネはこれらの結果から、インフルウイルスは海洋で発生したとする説を発表した。古代魚とインフルの進化を重ね合わせると、インフルウイルスが約6億年前に魚類で発生し、宿主とともに進化し、現在のインフルウイルスにたどり着いたことが考えられるというのだ。しかし、どのように変異して今日に至ったのかについては、ほとんど何も分かっていない。
インフルウイルスが陸上に進出する前に、おそらく魚類を含む水生動物に感染したことが想定される。インフルウイルスが初期の陸生脊椎動物と一緒に陸に上がってきたのか、それとも最近になって海から上陸してきたのかは不明だ。今日ではヒトだけでなく、陸海の幅広い哺乳動物に感染し、クジラやアザラシ、オットセイやアシカなどの海生哺乳類や、ガンやカモなどの水禽(すいきん)類からもインフルウイルスの感染が確認されている。
同時にシドニー大学の研究チームがサンゴから採取したRNAウイルスを分析したところ、古代のウイルスに感染している証拠を発見した。サンゴの祖先は約6億年前に他の動物から枝分かれしたとされる。おそらくこのRNAウイルスもこの時期に出現し、後にこれらの古代ウイルスの中からインフルウイルスが生み出されたことが、サンゴの遺伝子から解明されるのではないかと考えている。ペトローネは、サンゴを研究することによって、動物に感染するRNAウイルスの進化が明らかになると期待している。
中国・上海パスツール研究所の崔傑(サイケツ)は、インフルウイルスやその近縁種はおそらく海から出現したのだろうという意見に同意している。彼のチームは2021年、深海のロブスターのゲノムを分析し、インフルウイルスと同じグループのウイルスを発見した。「海洋環境には多様な未知のウイルス群があり、インフルウイルスが海洋に起源を持つという説得力のある証拠を自分たちも見つけた」と、述べている。水中起源説に従うなら、その後インフルウイルスは海から陸に上がり、さまざまな動物に感染を広げていったことになるが、地球のすみずみまで拡大していった経過は残念ながらまだ分かっていない。
新世界を襲ったインフルの脅威
インフルエンザと覚しき感染症の流行を世界で最初に報告したのは、古代ギリシャの医聖ヒポクラテス(紀元前460年頃~370年頃)だ。「紀元前412年にギリシャ北部からやってきた病気によって、ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳‘(せき)が止まらなくなった。病気はたちまち広がったものの、あっという間に収まった」と記している。米国疾病予防管理センター(CDC)の創設メンバーの一人アレクサンダー・ラングミュアはこの記述を検討し、この感染症がインフルエンザだったとみている。
類似の集団感染は、1357年から58 年にかけて、冬季にイタリアのフィレンツェに現れたことが記録されている。当時の文書には、幅広い年齢層の人々が発熱と呼吸器不全に苦しめられたことが書かれている。この感染症は「インフルエンツァ・デル・フレッド」(「風の影響」の意味のイタリア語)と呼ばれた。フィレンツェの年代記作家マッテオ・ヴィラーニは、冬の冷たい邪悪な空気が通常よりも長く体内にとどまったのが疫病の原因であると記している。それに対して、占星術師たちは星座が影響していると主張した。
この病名が英語圏で「インフルエンザ」として定着した。それまでは、「ノック・ミ-・ダウン熱」と呼ばれていた感染症が、季節と症状からみてインフルエンザの可能性が高い。15世紀に入ると、インフルとも解釈できる流行がヨーロッパ各地で増えた。その結果、1411 年、27 年、38 年、82 年に幼児と高齢者の死亡率が上昇したことに加え、自然流産が増加したという。この感染症が、ヨーロッパと交流が始まったばかりの新世界にも伝播(でんぱ)した。
1493年に2度目の新世界航海で、コロンブスの一行がカリブ海のイスパニョーラ島(現在のドミニカとハイチ)に上陸した直後から、先住民のアラワク族の間に「熱病」が流行して多くが死亡したことが、スペインの司祭で歴史家のバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484~1566)の著書に記されている。
それまでヨーロッパ大陸の疾病と接触がなかった先住民族は持ち込まれた病気に対して抵抗力がなく、重症化しやすかった。コロンブスの一行との接触から1世紀以内に、カリブ海とメキシコの先住民の90%以上が短時間に命を落としてしまったことがそれを物語る。カサスはスペイン人が押しかけたことで先住民の間で感染症が拡大しただけでなく、彼らの植民地事業がいかに不正行為と残虐行為に満ちたものかを告発し、支配の不当性を訴え続けた。
スペイン・アルカラ大学の科学史研究者フランシスコ・グエラは著書『最古のアメリカの流行: 1493 年のインフルエンザ』で、コロンブスが持ち込んだブタから現在の「豚インフルエンザ」にあたる感染症が広がったと記している。
(文中敬称略)
1章 インフルウイルスの履歴書:(2)人類の行動範囲の広がりとともに世界各地に感染が拡散 に続く
バナー写真:古代ギリシャの医聖ヒポクラテス(右)が医学のシンボルである蛇の巻き付いた杖を手に、診察する医師を見つめる様子を描いた紀元前350年頃のレリーフ(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Hulton Archive/Getty Images)