
月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮 ― 芭蕉
文化 環境・自然・生物 暮らし
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第58回の季題は「年の暮(くれ)」。
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月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮 芭蕉
(1686年作、『あつめ句』所収)
日本で古くから詩歌に詠まれてきた素材をまとめて「雪月花」や「花鳥風月」と言います。この句ではそれらの中から「月」と「雪」の二つを仮に代表として提示しています。ですので「月雪と」とは「風雅なものごと全般を追って」ということです。「のさばり」は終止形なら「のさばる」で、「思うままに行動する」意味の俗語です。「けらし」は詠嘆をこめて過去のことを述べる言い方です。句の全体としては「年の暮に振り返れば、この一年『月見』とか『雪見』とか風雅を追いかけ、したい放題で過ごしたよなあ」となります。
補足すれば、室町時代以来の芸能・狂言の中の、他人に遠慮なしに振る舞う自己中心的なキャラクター「太郎冠者(たろうかじゃ)」は、よく劇中で「のさ者」と呼ばれます。つまり「のさばる者」です。芭蕉は風雅最優先で日々を送る自分自身を「のさ者」と意識していて、太郎冠者に重ねたのかもしれません。(※1)
狂言「簸屑(ひくず)」で共演する野村万蔵(右)と野村万作兄弟(東京・渋谷区千駄ケ谷の国立能楽堂):時事フォト
では芭蕉は、そのように暮らした一年に満足しているのでしょうか、それとも反省しているのでしょうか。芭蕉はしばしば手紙や俳文などに、世俗から離れて仏道修行に励むことこそ本当の生き方だとする意識を示しています。「月雪とのさば」るのは、その正反対の怠惰な態度です。こうした芭蕉の仏道志向や、「のさばりけらし」の自嘲めいた語感からすれば、芭蕉は「今年も仏の道に入れなかった」と反省しているとみるべきでしょう。
バナー画像 : PIXTA
(※1) ^ 「のさ」については佐竹昭広著『下剋上の文学』に詳しい。