4章 新型コロナが残したもの:(2)戦争と感染爆発
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戦死者を上回る戦病死者
大規模な戦争には、必ずといってよいほど感染症のパンデミック(世界的流行)による多大なる被害がつきまとう。戦時における感染症の流行がいかに人びとの健康をむしばんできたか。軍隊では天然痘、マラリア、ペスト、赤痢、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、梅毒、淋病(りんびょう)、エイズ、ノロウイルスなどが繰り返し流行した。
古くは、アテネとスパルタが戦った「ペロポネソス戦争」(前431~前404年)で、アテネが籠城作戦をとったために、過密化した城内で感染症が発生して人口の3分の1を失った。あるいは541年、ビザンチン皇帝ユスティニアヌス1世が東西に分裂したローマ帝国を再統合しようと起こした戦いの渦中にパンデミックが発生、首都コンスタンティノープルの人口の4割が犠牲となった。
近代以後の戦争でも、戦病死者はしばしば戦死者を上回った。1812年、総勢約60万の大軍を率いてロシアに侵攻したナポレオン軍に発疹チフスや赤痢が広がったのは有名な話だ。戦闘による死者は約10万人だったのに対して、戦病死者は約22万人にのぼった(この死者数にはさまざまな説がある)。
クリミア戦争(1853~56年)も悲惨だった。ロシアの進出を阻みたい英国は、フランスとともにトルコ側について参戦、双方で約73万のうち約3万4000人が戦死した。それに加え、約13万人がコレラ、猩紅熱(しょうこうねつ)、天然痘、はしかで命を失った。
この戦争でフローレンス・ナイチンゲールは、38人の看護師を率いて兵士の看護にあたった。彼女の著書によると、汚れた兵士の衣服にシラミやノミが群がり、ベッドの下をネズミが走り回る劣悪な環境だった。約 2000人の兵士に対して14の風呂しかなかった。深夜まで傷病兵を看護した彼女は、「ランプをもった天使」といわれた。彼女の訴えで衛生状態が改善されて死者も減っていった。
南北戦争(1861~65年)では、米国の戦史上、最大の死者数を記録した。約62万人の戦死者の3分の2はマラリア、はしか、赤痢、腸チフスによるものだった。戦争当時、米国人口の5分の4は人口密度の低い農村地帯に住んでいたが、感染症に対する免疫を持たない何百万人もの新兵が過密状態の訓練キャンプに詰め込まれたために感染爆発が発生した。
日本が関わった戦争でも状況は同じだ。アジア歴史資料センターによると、日清戦争(1894~95年)では、日本軍の戦死者1417人に対して戦病死者はその8倍以上の1万1894人にのぼった。脚気(かっけ)とともに、赤痢、マラリア、コレラが多発した。日露戦争(1904~05年)では、戦死者5万5655人に対して戦病死者は約半数の2万7192人だった。
マラリアと発疹チフスに苦しめられた第2次世界大戦
第1次世界大戦末期の1918~20年に、史上最悪のパンデミック「スペイン風邪」(インフルエンザ)が連合国軍、同盟国軍の双方に発生した。両軍ともに兵士の半数以上が感染し、全体で972万人の戦死者のうち589万人、つまり6割が戦病死者だった。その3分の1はスペイン風邪によるものとみられる。そのため戦争の継続が困難になり、大戦の終結が早まった。皮肉なことにウイルスが平和をもたらした。だが、各国から参戦した兵士は、本国にウイルスを持ち帰ったために、終戦後にインフルエンザは地球のほぼ全域で感染爆発を引き起こした。
第2次世界大戦を象徴するパンデミックと言えば、東南アジア戦線ではマラリア、ヨーロッパ戦線では発疹チフスだった。いずれも、蚊やシラミが媒介する動物由来感染症だ。日本軍でも集団感染が発生、部隊によっては9割が感染して戦闘能力を失った。一方、連合国軍は殺虫剤のDDTを1944年から東南アジア戦線に配備して、ハマダラカの駆除にあたった。それでも50万人の米兵が感染したといわれる。当時の英国首相チャーチルは、戦後に連合軍の勝因を問われて「原爆とレーダーとDDTだった」と答えている。
米国内でもマラリアは戦場にととまらず、兵士の帰国とともに一般市民の間で流行した。そのため国内のマラリア対策として、1946年に現在の疾病予防管理センター(CDC)の前身である「伝染病センター」が開設された。
戦時の沖縄本島でも、マラリア流行地域に強制疎開させられた一般住民や、駐留した日本軍の軍人・軍属の間で流行した。戦争という特別な状況下で発生したために、平時のマラリアと区別して「戦争マラリア」と呼ばれる。先島諸島(宮古列島・八重山列島)では、駐留していた約4万人の日本兵のうち、約1000人がマラリアで死亡したとみられる。宮古島では軍に強制徴用された住民の間にまん延し、終戦後も収まらず、1947年の罹患者数は1万2131人にのぼった。沖縄県各地には、直接の戦争被害よりマラリアの被害がはるかに多かった地域がある。
欧州戦線では、1941年のロシア侵攻作戦(バルバロッサ作戦)の際、発疹チフスが流行し、ドイツ軍が大きな被害をこうむった。1942~43年には、北アフリカ、エジプト、イランでフランス軍の間に広がった。また、ナチスの強制収容所で劣悪な環境から、発疹チフスが何十万人もの収容者の命を奪った。アンネと姉マルゴットのフランク姉妹も、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で 発疹チフスのために短い生涯を終えた。
ベトナム戦争とインフルエンザのダブルパンチ
1968年6月に香港でインフルエンザの感染爆発が発生した。当時は「香港風邪」や「毛沢東インフルエンザ」と呼ばれた。最初の発生は中国とみられ、広東省で大きな流行があったようだ。香港の流行は約 6週間つづき、約50万人(住民の15%)が感染し、行政機関も公共交通機関もマヒ状態に陥った。
8月、インフルエンザは戦闘が激化しつつあったベトナムに侵入した。この時期は、解放勢力側がテト(旧正月)攻勢を仕掛けて戦況は米国に不利になりつつあった。解放勢力を掃討する作戦の遂行中に米軍がソンミ村で住民約500人を殺害した事件が起きて、戦争に反対する動きが米国内や世界各地で盛り上がった頃だ。インフルエンザウイルスはさらに世界中に拡散し、日本、タイ、インドなどのアジア諸国からオーストラリア、さらに欧州へと感染が拡大し、世界中で100 万人が死亡したと推定されている(400万人以上とする説も)。
米国では感染した海兵隊員が本国にウイルスを持ち帰ったことで、9月2日にアトランタで最初の感染者が見つかり、12月までには50州すべてが流行に巻き込まれた。ジョンソン大統領(当時)も入院し、最終的には10万人以上が死亡した。1954年頃から約20年間つづいたベトナム戦争で死亡した米兵約5万8200人の2倍近い命がインフルエンザによって失われた。現在でも1968年は米国近代史上、最悪の年のひとつに数えられる。
この年は、私たちの世代にとっても最悪の時代だった。日本では約13万人が香港風邪に感染し、約1000人が死亡した。日本大学と東京大学ではじまった大学紛争は、学生の権利拡大や学費値上げ反対からベトナム戦争反対にまで広がり、全国の4年制大学の3分の1で、授業放棄、ストライキ、キャンパスの封鎖・占拠が行われた。インフルエンザにおびえながら、デモに加わったことを今でも思い出す。
4章 新型コロナが残したもの:(3)1000万人のコロナ孤児が待ち受ける過酷な運命 に続く
バナー写真=キエフにあるホテルで、ウクライナの代理母から生まれた乳幼児の世話をする看護師。新型コロナ対策の海外旅行制限のため、外国人の両親は代理出産で生まれた子どもたち引き取ることができない。2020年5月22日撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Anastasia Vlasova/Getty Images)