感染症の文明史 :【第1部】コロナの正体に迫る

4章 新型コロナが残したもの:(1)悲惨極まりない戦時下のコロナ感染

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100年に1度のパンデミック(世界的大流行)がもたらしたものは健康上の脅威だけではなかった。ストレスや不安を感じる人が多く、自殺率が上昇。格差が拡大し、教育の機会も制限された。ロシアの軍事進攻で医薬品や医療器材が不足したウクライナでは感染拡大に拍車がかかった。社会の脆弱(ぜいじゃく)な部分が狙われ、弱いものが一段と力をそがれるのを私たちは目の当たりにした。

21世紀の生活を一変させたパンデミック

「半年のうちに世相は変わった」と、坂口安吾は太平洋戦争終戦の翌年に出版した『堕落論』を、こう書き出した。

この3年間、新型コロナの流行で世相は大きく変わった。グテーレス国連事務総長は「コロナウイルスによって引き起こされた激動によって、多くの人が不安や心配を抱え、混乱に陥った。私たちは、これまでの歴史で類を見ない健康上の脅威に直面している」と演説した。

アイルランドのヒキンズ大統領の言葉を借りれば、「このパンデミックで多くの命が失われ、身を守るために共通の努力をしたことで、人びとの生活が完全に変わった。この時代の共感や連帯は歴史に刻み込まれた」ということになる。ワクチンが効果を発して感染者が急減し、世界各地でマスクをかなぐり捨てて、街に飛びだして高揚感を味わった。しかしそれもつかの間、また次の波の襲来にわれわれはおびえている。

私自身80歳を超えた人生で、終戦直後の混乱期を除けばもっとも生活の変化が激しかった3年間だった。社会から隔離されるべき「リスク年代」とされた。何人かの友人・知人を新型コロナによって失った。感染症の歴史を長年研究してきたが、自分がその歴史の一部になるとは思いもよらなかった。

この100年に1度というパンデミックは、世界や日本に何をもたらしたのか。さまざまな調査結果をみても、ストレス、不安、恐怖、悲しみ、孤独、そしてうつ病や不眠症が増えた。NHKの世論調査では、8割以上の人が「生活に影響を受けた」と答えている。とくに影響が顕著なのは「移動」で、外出回数が「減った」人は最大で約8割にのぼった。「収入が減った」人は、非正規雇用者の4割を占め、正規雇用者の約3割に達した。

パンデミックが高めた自殺率

これまでの歴史を振り返ると、ストレスの増大は、社会的には自殺者の増加となって現れることが分かっている。19世紀半ばにアジアにペストが根づいたときには自殺者が増えたし、約100年前のスペイン風邪流行のときの調査では、欧米の43の大都市で自殺率が高まったことが記録に残されている。1980~90年代の米国では、エイズ感染者の自殺率はそれ以外の人々の100倍にのぼった。

日本でも新型コロナ流行の期間中に自殺率が大きく上昇したことが、旭川医科大学と北海道大学の共同研究が示している。厚生労働省の自殺統計を用いて、流行前 (2016年1月~2020年3月) と、発生後(2020年4月~2021年12月)の自殺率の変化を調べた。この間の自殺による「超過死亡数」の推定値を算出すると、男性1208人、女性で1825人だった。流行期間中の「超過死亡」は、もし新型コロナの流行がなければ発生しなかった可能性のある死者数を意味する。

このニュースは欧米でも大きく報じられた。日本はかつて先進国でもっとも自殺率が高かったが、過去10年間で自殺率を大幅 に低減することに成功して注目されていたからだ。研究グループは「さまざまな支援が行われてきたが、本当に追い詰められた人々に支援がきちんと届いていない可能性があることを、研究の結果は示している」という。

日常生活でもっとも影響を被ったのが教育現場であろう。オンライン授業や分散登校に加え、入学・卒業式がリモートになり、遠足や運動会、部活動なども中止された。明治初年の近代学校制度の導入以来、最大の変化だった。また、家庭でも通信機器の整備、子どもの在宅の長時間化をはじめ多くの負担を強いられた。家庭環境の差による学力格差がさらに拡大しているとする調査もある。遠からず、この時代の子どもたちは「コロナ世代」と呼ばれることになるだろう。

経済協力開発機構(OECD)は、2021年の学校閉鎖による影響をまとめた報告書を発表した。世界保健機関(WHO)がパンデミック宣言を発令した1年間に、世界188の国と地域で18億人の子どもたちがロックダウンによって学校で授業を受けることができなくなった。報告書は、「学齢期の子どもは新型コロナに対してもっとも脆弱(ぜいじゃく)な年齢層であり、彼らの今後に深刻な影響を与えた」と指摘している。

感染症と戦争の深い仲

感染症の流行と戦争は切っても切れない関係にある。過去にも戦争中に発生した感染症によって、社会的混乱をさらに深める事態がたびたび起きてきた。インフラが攻撃されて電気、上下水道などの都市機能がマヒし、さらに病院などの医療機関が破壊される。兵士も避難民も過密な状態に置かれ、食料不足や非衛生な環境に苦しめられる。とくに軍隊は若い男性が主体の均一的な集団であり、細菌やウイルスの増殖の温床になりやすい。さらに兵士や避難民の移動に伴い、病原体が広範囲に拡散されていく。

その実例が現在進行中である。ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシアによる軍事侵攻開始以来2023年1月までに、約1000カ所を超える病院や医療機関が被害を受けたと発表した。ロシア軍は医療施設を砲撃し、避難した人たちが戻ってきたところを狙って再び砲撃する残忍な作戦も行った。ロシアの占領地域や戦闘地域では、医療施設が破壊され医療従事者が不足して、医療現場は危機的状況にある。

負傷した軍人や民間人で病院が過密状態になっているため、重病患者でも入院はきびしく制限されている。このため、コロナ感染者のベッド数は大幅に削減された。戦闘のつづく東部や南部の医療施設では、医薬品や医療器材の不足が著しい。ロシアの侵攻は新型コロナの感染拡大に拍車をかけた。

米国の調査機関「ワールドメーター」によると、2023年4月5日現在、ウクライナの新型コロナの感染症数は545万5979人、死亡者数は11万1558人だ。東部地域やクリミア半島などの戦闘地域での調査はなく、さらに多くの人々が感染した可能性もある。一部の医療スタッフが国外に避難したことも影響し、ウクライナ衛生当局によると、PCR検査は能力の2.5~3%しか稼働していない。ワクチン接種の開始も大幅に遅れた。

紛争地帯で根絶寸前だったポリオが流行

問題は新型コロナに限らない。子どもが受けるべきワクチン接種もできない。2021年9月と12月にウクライナ西部で、2人の子どもが小児マヒ(ポリオ)に感染した。生後 17カ月の女児と2 歳の男児で、いずれも予防接種を受けていなかった。ロシアの侵攻で、この2人の行方も分からなくなった。混乱のなかで接触者の追跡もできないでいる。

ポリオ感染者は世界的には根絶寸前のレベルにまで減っていた。しかしシリアでも1999年以来症例の報告がされていなかったが、紛争地帯の北東部ではポリオの流行がはじまり、これまで48人が発症した。コンゴ民主共和国は数年前に内戦が正式に終結したものの、ワクチンの不足により黄熱病の深刻な流行が発生した。

国連によると、2022年末現在、約880の内戦、抗争、騒乱が世界中で起きている。多数の兵士の動員、戦乱に伴う8000万人におよぶ移動、数十万人の難民、衛生状態の劣悪化、医療崩壊…こうした事態が新型コロナをはじめとする感染症の流行を加速している。たとえば、シリア、イエメン、ソマリア、イラク、アフガニスタン、アゼルバイジャンなどの紛争地域でも、社会の混乱に乗じて感染症の流行が拡大している。例えばイエメンではコレラの大発生がつづき、約70万人が感染して、2022年だけで2000人以上が死亡したとされる。だが、実態は闇の中だ。

4章 新型コロナが残したもの:(2)戦争と感染爆発 に続く

バナー写真=米国フロリダ州マイアミの動物園に開設されたドライブスルー型のPCR検査会場に並ぶ車。2021年12月29日撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Joe Raedle/Getty Images)

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