感染症の文明史 :【第1部】コロナの正体に迫る

1章 新型コロナの正体を探る:(2)全世界を襲ったロシア風邪の猛威

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新型コロナウイルス感染症に酷似したロシア風邪の流行が、週300キロの猛スピードで世界各地に広まり、重症の肺炎によって多くの人々の命が奪われた。当時、約15億人の世界人口のうち、100万人以上が死亡したと推定される感染爆発の実態に迫る。

世界各地に感染が拡大

ロシア帝国ブハラ(現・ウズベキスタンの都市)で発生した集団風邪を記録したヨーロッパ各国の報告書によると、1889年11月の最初の流行から90年2月までの間に、東西ヨーロッパの33の都市に感染が拡大した。わずか6週間で、ドイツのシュツットガルトから、ベルリン、ウィーン、スイス、そしてアムステルダム、コペンハーゲン、ブリュッセル、プラハへと広がった。そこから南下して、パリ、リヨン、リスボン、ローマも感染圏内に入り、コルシカ島などの地中海一帯にまで拡大した。マドリードでは1日で最大約300人が死亡した。

フランスの雑誌「グルロ」の1890年1月12日に掲載された「ロシア風邪」の風刺漫画(著者死後70年以上経過で版権切れ)
フランスの雑誌『グルロ』の1890年1月12日に掲載された「ロシア風邪」の風刺漫画

大西洋をわたった米国でもマサチューセッツ州カントンで第1号の死者が報告された。さらに89年12月18日にボストンとニューヨークで感染者が現れ、鉄道の路線に沿うように、シカゴ、デトロイト、デンバー、ロサンゼルス、サンフランシスコなど全米に拡大していき、他の都市でも患者が続出して90年の1月12日にピークに達した。多くは重症の肺炎によるもので、全米で1万3000人の命が奪われた。とくに、米国とカナダの先住民の間で重症者が多かった。そしてメキシコから中南米に飛び火して、90年2月2日にはブエノスアイレスまで感染を広げた。

遠隔地に飛び火して、アフリカでも89年11月には南アフリカのダーバンで集団発生があり、12月下旬から90年1月にかけて各地の港湾都市に広がった。オーストラリアとニュージーランド、ついにグリーンランドとアイスランドにも感染の波がおよんだ。

週平均で300キロの感染速度

英国ではじめてこの流行を報じたのは、1890年1月6日付のタイム紙だ。「ロシア風邪」と報じたことからこの名称が定着した。紙面を追っていくと、92年末までに死者数は11万人に達している。もっとも有名な犠牲者は、ヴィクトリア女王の孫であるアルバート・ヴィクター王子だ。92年の新年を祝うパーティーで感染し、重症の肺炎を起こして5日後に28歳で亡くなった。王位継承順位2位のクラレンス公爵も肺炎が重症化して死亡した。英国首相だった第5代ローズベリー伯爵も同じ年に感染し、一命は取り留めたが、当時の新聞には「ひどい倦怠感(けんたいかん)で動けなかった」と報じられている。

英国の人口100万人あたりの死亡者数は、90年には146人だったのが91年には544 人にまで急増した。日本の2021年の新型コロナ死者数は、100万人あたり約120人だったから、その深刻さが分かるだろう。

英国の元首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965)は、1890年当時15歳で名門ハロー校の生徒だった。学校でもロシア風邪が流行し、北部のシェフィールドなどの町では、高い死亡率からパニックが広がっていた。彼は「インフルエンザ」と題する詩を書き残し、そのなかで「貧富や身分の上下に関わらず感染する」と恐怖を表現している。

デンマークも最悪の事態に見舞われていた。それは、89年12月、ロシアのサンクトペテルブルクからコペンハーゲンに到着したロシアの貨物船からはじまった。船が停泊した直後にロシア人船長が高熱で入院。数日後にはコペンハーゲンの兵舎で6人の兵士が発病、すぐに市内の他の兵舎に広がって毎日のように20人前後が駐屯地の病院に入院した。

ウイルスはものすごい勢いでデンマーク国内に広がった。12月14日の記録では、コペンハーゲン市内で約3500人が感染。ほぼ2年間、デンマーク中で猛威を振るい、当時の推定では人口の75%が感染したという。とくに、第3波の変異ウイルスは毒性が高く、死者の大多数がこのときに集中した。

一方、アジアでは1890年2月にインド、3月にはシンガポールとオランダ領東インド(現・インドネシア)、5月には中国でも感染が確認された。アジアからオーストラリア、ニュージーランドなどの南半球へと広がりつづけ、ついには地球を一周して中央アジアの最初の発生地点に達した。

感染の拡大速度はきわめて速く、週平均で約300キロも感染地域を広げたと推定される。わずか4カ月で地球を一周したことになる。当時の世界人口の平均年齢は、今日よりはるかに若かったのにも関わらず、多くの人びとが犠牲になった。当時、約15億人の世界人口のうち、約100万人が死亡したと推定される。実際には、この何倍も亡くなったとみる研究者もいる。

ロシア風邪の拡大図
ロシア帝国のブハラで発生したロシア風邪は、猛スピードで世界各地に広がっていった

感染症対策に「久松るす」の張り紙

日本にはインド、東南アジアを経由して1890年にウイルスが侵入した。ただし、詳しい資料が残っていないため死者数は断片的にしか分からない。国立保健医療科学院・主任研究官の逢見憲一(おおみ・けんいち)は、東京都と神奈川県に残る「超過死亡数」の記録からみて、1889~91年の死亡者数は異常に増加しているという。「(約38万人が亡くなった)スペイン風邪(1918~20年)よりは少なかったが、関東に関するかぎりそれに匹敵するか準ずるものだった」と述べている。

超過死亡数とは、平時に想定されているより増えた死亡者数のことをいう。つまり「隠れた死者数」である。感染症流行以外にも、異常気象、飢饉(ききん)、戦争などの予期せぬ事態が原因で引き起こされる。

新型コロナの場合も超過死亡数が増えている。米ワシントン大学の研究チームが、世界74カ国・地域を対象にした2020年1月から21年12月までの超過死亡数を推定して英医学誌「ランセット」に発表した。日本の超過死亡数は11万1000人と推定され、確定されたコロナによる死亡者1万8400人の約6倍もあった。この数字は、経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国中で最大だった。だが、この数字は高すぎるとして、専門家の間からも疑問が呈されている。

国立感染症研究所によると、日本の超過死亡数は、2022年1月から6月までの合計で、最大4万6000人と史上最多だった。これは新型コロナが原因だと思う人も多いだろうが、同時期のコロナの確定死者数は約1万2000人である。超過死亡数と確定コロナ死亡者数の間の大きなギャップは、国がコロナ死を捕捉できていないことを意味し、制度的に医療が全国民に届いていないことにもなる。

この理由として同研究所は「医療の逼迫」と説明しているが、それだけでコロナ以外の3万人以上の死因を説明するのはむずかしい。超過死亡のピークはコロナワクチンの追加接種のピークと重なり、もっとも増えた死因は、新型コロナによる直接死以外に、医療逼迫の影響で医療機関を受診できなかった患者、長期の外出自粛によって持病を悪化させた高齢者が多かったことなどが考えられる。ワクチンに批判的なグループは、ワクチンの副作用によって死亡者が増えたと主張している。

『半七捕物帳』などで知られる小説家の岡本綺堂(きどう、1872~1939年)は、随筆集『思ひ出草』のなかで、ロシア風邪流行当時の東京・千代田区麹町界隈(かいわい)の模様を書き残している。

「日本で初めて此の病がはやり出したのは明治23年(1890年)の冬で、24年の春に至つてますます猖獗(しょうけつ)になつた。我々は其時初めてインフルエンザといふ病を知つて、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云(い)ふ噂を聞いた。しかし、その当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風(おそめかぜ)と云つてゐた。(中略)東京には『久松留守』と書いた紙礼を軒に貼付けることが流行した」

家の軒下に貼られた「久松るす」の張り紙(江東区深川江戸資料館蔵)
家の軒下に貼られた「久松るす」の張り紙(江東区深川江戸資料館蔵)

なぜ「お染風」と呼ばれたのだろうか。歌舞伎や浄瑠璃の人気演目「お染久松」(おそめひさまつ)の主人公、お染にちなんで命名されたからだ。大坂・瓦屋橋(かわらやばし)の油屋の娘お染と丁稚(でっち)久松の心中事件を題材にしたもので、1813年(文化10)年の初演以来、何度も上演され続けている演目だ。この感染症が広まった一帯では、軒下に「久松るす」と書いた張り紙をしたという。「久松は留守なので来ても無駄」と、お染を遠ざけようとしたのだ。時代は明治になっていたが、怖い疫病をしゃれのめす江戸っ子の心意気が伝わってくる。

ちなみに、当時のインフルエンザの流行には、歌舞伎などで話題となった人物の名が付けられた。たとえば、「八百屋お七(放火事件の犯人)」のお七風、「城木屋お駒(密通のために夫を殺した主人公)」のお駒風などだ。また、感染源と信じられた地名から、琉球風(りゅうきゅうかぜ)、アメリカ風などと呼ばれた。

1月9日が「風邪の日」とされているのは、寛政年間に無敵を誇った大横綱・谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ)が現役のまま風邪で亡くなった日に由来する。強靭(きょうじん)な肉体を誇る力士でも猛威を振るった感染症には勝てず、この時の風邪は「谷風邪(たにかぜ)」と呼ばれた。

1章 新型コロナの正体を探る:(3)「ロシア風邪」の正体はコロナウイルス?  に続く

バナー写真=ドイツの「コンチェルトハウス・ベルリン」でのオペラコンサート。2021年6月18日撮影。相互に距離を保つため500人に制限された観客が、屋外でオペラ「魔弾の射手」を楽しんだ(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Christian Ender /Getty Images)

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