日本文学の至宝

エドへの手紙:エドワード・サイデンステッカーの思い出

文化

エドワード・サイデンステッカー(1921~2007)は、日本の文学作品の優れた翻訳で知られるアメリカの日本文学研究家。なかでも『源氏物語』や、日本人初のノーベル文学賞受賞者となった川端康成の作品の名訳は高く評価されている。2月11日の生誕100周年を機に、ジャニーン・バイチマン教授が、書くことを愛したサイデンステッカーの人となりと、彼との友情について回想する。

「何か間違いは?」

1960年代半ば、コロンビア大学の学生だった私は、ハーバート・パッシン先生の日本社会学の講義を受けていた。ある日先生が、「旧友のエドワード・サイデンステッカーがニューヨークに来ているので、会ってみないか」と声を掛けてくれた。私はもちろんその誘いに飛びついた。当時、サイデンステッカーは、まだ『源氏物語』には着手していなかったが、谷崎潤一郎の『細雪』や川端康成の『雪国』の翻訳者としてすでに頭角を現していたからだ。

その日、たしかコーヒーを飲みながら、4年生の日本語の授業で川端康成の『雪国』を講読していることを話し、もちろん、彼の『雪国』の翻訳についても話題にした。

「何か間違いはなかった?」彼はすぐ、心配そうに聞いてきた。私は、驚いて、頭の中でその質問を何度か反芻(はんすう)した末に、彼は真剣に聞いているのだということを理解した。この人は謙虚なのだ―それが彼について私が最初に学んだことだった。

私が東京で暮らし始めたころ、エド(彼はそう呼んでほしいと言った)はハワイと日本を行ったり来たりしていた。東京では家が近かったこともあり、昼食を一緒に取ったり、時には私の夫も交えて夕食をともにしたりすることもあった。なかでも印象に残っているのは早春の時期に上野で昼食を取った後、不忍池の周りを歩いて鳥を眺めたり、湯島まで足を延ばして梅の花を楽しんだりしたものだ。

上野不忍池の桜並木(© Pixta)
上野不忍池の桜並木(© Pixta)

思いにふける鷺

彼が時折口にする何気ない言葉は、私の中に強烈な印象を残した。

ある時、私たちは立ち止まって、池の中に片足で立っている鷺(サギ)を眺めていた。彼は、鷺は何時間もそのまま立っていることがあるのだと言った。そして、微笑みながら、ゆっくりとつけ加えた。「彼はいったい何を考えているのだろうね」これはエドが言ったままの正確な言葉だ。なぜならその日、私は帰宅してすぐにその言葉を書きとめ、日付を入れたからだ。1977年3月31日のことだった。

実のところ、私は彼がその疑問を口にするまで、鷺が何を思ってそうしているのかなど、考えてもみなかった。もしも今、エドに会うことができるなら、どうしてその鷺が「彼女」ではなく「彼」だと考えたのかと聞いてみたい。そんな質問を投げかけたら、たぶん、フェミニズムに関する辛辣(しんらつ)なコメントが返ってくることだろう。いや、そうではなく、話がまったく違う方向へ進むのかもしれない。

そこがエドワード・サイデンステッカーの面白いところだ。会話がどんなふうに展開していくのか予想がつかない。だから、彼と話すのはとても楽しかった。そのことが何よりも強く記憶に残っている。

同時に、私がある気持ちや感情について話そうとしたときには、彼はいつも理解してくれた。彼はあらゆることを的確にとらえ、本物と偽物を見分けるすべを心得ていた。

本物と偽物を見分けるというと、『宇治十帖』の底流をなす「嘘と真実」というテーマが思い起こされる。54帖からなる『源氏物語』の最後の十帖は、光源氏の死後を描いた物語で、京の都から離れた宇治の荒れ野を舞台に、より抑えられた語り口でつづられている。エドワード・サイデンステッカーは、このドラマの中心をなす寡黙な真実の語り部である浮舟に、大いに共感を抱いたに違いない。彼は『源氏物語』に関するすばらしいエッセイに、浮舟の出家を情感たっぷりに描いている。

「彼女は、貴族社会の片隅に身を置く暮らしを捨てて......たった一人、未知の国へと旅立つ支度を整えるために尼寺にやってきた。源氏物語の女性たちは、若紫が桜の花陰で光源氏に見初められて以来、はるかな道のりを旅してきたのだ」

エドへの手紙

いまやエドワード・サイデンステッカー自身が未知の国へ旅立ってしまった。彼はおそらくそこで、浮舟をはじめとする『源氏物語』の登場人物たちに出会っていることだろう。そこにいる彼に手紙を送ることができるなら、私はこんなふうに書きたいと思う。

親愛なるエド

あなたが私の心の中で特別な位置を占めていることをご存じですか? 東京で暮らし始めたころ、本郷や湯島の街を一緒に散策したことを懐かしく思い出します。

あなたの偉大な業績―樋口一葉、永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などの素晴らしい翻訳、東京を描いたエッセイ、荷風の伝記―などに感嘆する人々は、あなたが本当はどんな人なのかを知りたがります。

あなたの「本当の」姿は、作品から読み取れるのではないでしょうか。少なくとも、『源氏物語』の翻訳に費やしていた長い期間、欠かさず記録していた日記をもとに出版された『源氏日記』を読めば、難しいことではありません。

あなたは書くこと、物事を記録するという行為そのものを愛したに違いありません。なぜなら、毎日、早朝から翻訳に没頭していたにもかかわらず、丸一日の出来事を日記につづるだけの時間を見つけていたからです。

日記はたいてい、『源氏物語』の翻訳に費やした午前中のことから始まります――「『柏木』の最終稿、懸命にタイプ」。そして、草稿をタイプしながら心に浮かんだ思いが描写されます。さらに、『源氏物語』の最終章である宇治十帖は紫式部自身が書いたのか、それとも他に書き手がいたのかという、『源氏物語』研究の長年の論争の的である解きがたい疑問を、あれこれと考え巡らします。そして手がかりを熟考した末、あなたはこう結論づけるのです。「結局のところ、宇治十帖がすでに作者の頭の中にあったのかどうかは判断できない。おそらく、はっきり判断できる時は永久に来ないのだろう」

日記は続いて、その日の残りの時間についてつづられます。

「午後、福田さんと2人、車で泳ぎに出かける。ワイキキを抜け、マカプー岬の先まで行く。時々車をとめて、岸に近い海、そして沖合の海を眺める。どちらも異様なほどに美しい。マウイ島、モロカイ島、ラナイ島――みなかすかに、しかしくっきり見える。『ブルー・ハワイ』――馬鹿げた、月並みな表現にはちがいない。しかし確かにハワイの魅力は、一つにはこの沖合のブルーの島にあることもまた事実だ。二百年前のハワイは、今はもう大して残ってはいないけれど、あの青い島々の魅力だけは、今も確かに目の前にある。

カイルアの浜で泳ぐ。戦争中、何日も愉快な午後を過ごしたところだ。おそろしく揺れる道バスに乗って来たものだった。今はあの道もなくなっている。だが、浜の感じは30年前そのままだ。近頃は、トルーマンもそうだったというが、眼鏡を掛けたまま泳いでいる。熱帯の海に仰向けに身を委ねて、貿易風が椰子の葉を揺するのを見上げているのは、なんと満ち足りた気持ちのすることか」(『源氏日記』p.250、安西徹雄訳、講談社)

このくだりを初めて読んだとき、私が大笑いしたことを、あなたに話したでしょうか。あなたのことを思うときはいつも、ハリー・トルーマンのように眼鏡をかけたまま、ハワイの海にあおむけに(涅槃仏のように?)ゆったりと浮いている姿が、目に浮かびます。そして私は、「貿易風が椰子の葉を揺する」(つまり、貿易風は椰子の葉を揺らすことで自分の存在を示している)という素晴らしいフレーズに気づきました。

上野の白鷺と同じように、あなたはハワイの木々を吹き抜ける貿易風にも、心が宿っているかのように感じていたのですね。

ハワイの貿易風と湯島の梅の花、そして不忍池の鷺。皆、あなたの友達だった。そして、この私も。

(原文英語。バナー写真:1968年11月、川端康成氏のノーベル文学賞受賞祝賀パーティーであいさつするサイデンステッカー氏(右端)。後列右が川端康成夫妻、左が佐藤栄作首相夫妻=東京都内のホテル ©共同)

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