日本文学の至宝

「わが師、わが友、ドナルド・キーン」ジャニーン・バイチマン

文化 教育 Books 言語

偉大な日本文学の研究者・翻訳者として知られたドナルド・キーンが亡くなって、ちょうど1年がたつ。大学院生の頃にキーンと出会い、その後も長年にわたって交流を続けたジャニーン・バイチマン教授が2020年1月に東京の日本外国特派員協会で講演をし、キーンとの数々の思い出を語った。

ジャニーン・バイチマン Janine BEICHMAN

学者、翻訳者、詩人。大東文化大学名誉教授。著書に『Masaoka Shiki: His Life and Works』、『Embracing the Firebird: Yosano Akiko and the Rebirth of the Female Voice in Modern Japanese Poetry』などがあり、大岡信の詩を英訳した『Beneath the Sleepless Tossing of the Planets: Selected Poems』が日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞。

衰えぬ情熱

ドナルド・キーンは1961年、トロント大学季刊誌に寄稿したエッセーで、「忘れ難いほどの美しさを秘めた能楽でさえ、人々が知っているのは『能=Nō』という言葉と『否定語=No』は駄じゃれのようなものだ、という程度だろう」と日本文学を軽視する世の中の風潮を嘆いている。大東文化大学名誉教授のジャニーン・バイチマンは、かつての恩師で友人でもあったキーンの当を得た辛らつな批評は、教え子たちにとって大きな励みだったと当時を振り返った。

バイチマンは、自分の次女が1998年頃、宗教学と比較文学のどちらに進もうか決めかねていた時、コロンビア大学での能に関する大学院のゼミに参加したエピソードを紹介した。ゼミで取り上げられたのは『松風』という作品で、亡霊になった2人の姉妹が、かつて塩が採れた浜辺をさまよいながら、昔の愛人を待ち焦がれるという物語だった。バイチマンの娘によると、読み終わって顔を上げたキーンは、「これほど素晴らしいものがあるでしょうか」と言いながら涙で目を潤ませていた。

恩師ドナルド・キーンとの思い出を語るジャニーン・バイチマン(2020年1月22日、東京の日本外国特派員協会にて)
恩師ドナルド・キーンとの思い出を語るジャニーン・バイチマン(2020年1月22日、東京の日本外国特派員協会にて)

30年以上教えている作品を読みながら、今なおキーンは心を動かされている-バイチマンの娘はその情熱を間近に見て感動し、文学の道に進むことにした。バイチマン自身、1963年にキーン執筆・編集の『Modern Japanese Literature: An Anthology』と出会ったことが、日本文学の道を選んだきっかけだった。特に魅せられたのが三島由紀夫の『仮面の告白』で、その年にバイチマンは大学院でキーンの教え子となり、74年に博士号を取得するまで彼の下で学び続けた。

垣根のない世界

2~3年で日本語の知識を初歩から詰め込んだバイチマンは、松尾芭蕉や世阿弥、近松門左衛門らをテーマとするキーンのゼミに加わった。何世紀も前の文学作品を読むことは大胆な挑戦だったが、キーンの厳しい指導と励ましによって達成できた。バイチマンによると、1967年の能のゼミでは、すべて英訳のない能ばかりを題材としたが、自宅で予習して作った英訳は持ち込まず、クラスで能の詞章を読み上げ、その場で英訳していった。

ゼミでは、可能な限り文学的要素を重視しながら翻訳の推敲(すいこう)を重ねた。「日本語の意味に忠実であるだけでなく、英語としても美しく翻訳できたときは、まるで2つの言葉の壁が溶けてなくなり、垣根のない透明な世界に入り込んだような気がしました」とバイチマンは語った。他学年度のゼミ生たちの翻訳とあわせて編まれたのが、ドナルド・キーン/ロイヤル・タイラー編『Twenty Plays of the Nō Theatre(謡曲20選)』(1970)である。

バイチマンは、69年にフルブライト・ヘイズ奨学金を得て、正岡子規に関する博士論文を書くために日本を訪れ、指導教授になったキーンとは手紙を交わした。キーンから返ってくる添削だらけの論文原稿を見ると、がっかりする半面、やる気もあふれてきた。またキーンは、論文執筆時期に結婚し、妊娠したバイチマンを全面的にサポートし、お祝いの言葉と博士論文審査会に関する激励のメッセージを送り続けた。

バイチマンの夫の名字で送られてきたキーンからの手紙
バイチマンの夫の名字で送られてきたキーンからの手紙

いまだに、子どもを持つ女子大学院生に対して「学問の世界を諦めた」と考える男性教授がいるが、キーンは決してそのようなことはなかった。「キーン先生の教えを受けた女子学生の多くが、その後自らのキャリアを切り開き、築いているのはそのためでしょう」とバイチマンは指摘する。博士論文の審査会のためにバイチマンが東京からニューヨークに飛んだのは、長女が生後2カ月の時だった。バイチマンがコロンビア大学に行っている間、赤ん坊は実家の母親に見てもらった。審査会では、俳句の文学性を認めない審査官や、短歌の訳の行頭が大文字でないことに不満な審査官から厳しい意見が出たが、無事に合格するようにキーンがサポートをしてくれた。

惜しみない支援

バイチマンの才能を信じたキーンは正しかった。彼女が博士論文をもとに執筆した『Masaoka Shiki: His Life and Works』(1982)は、英語ではじめての正岡子規の評伝で、高い評価を受け、現在も版を重ねている。初出版から25年たった2008年、バイチマンは、日本政府から文化勲章を授与されたばかりのキーンから意外なメールを受け取った。正岡子規の新たな評伝を書こうかどうしようかと考えているが、「私はあなたとの友情を危険にさらしたくありませんから、あなたが不愉快なら考えるのもやめます」と書かれていたのだ。

「その言葉にただただ衝撃を受けました」とバイチマンは振り返る。正岡子規をテーマに博士論文を書くように勧めたのは他ならぬキーンで、しかも彼はバイチマンの指導教授だった。彼女は当初、なぜキーンが自分の感情を害しないかと気に病む必要があるのだろうと首をかしげた。しかしバイチマンはそのメールを読むうちに、教授と教え子だった関係が、長い年月を経て徐々に友情へと変化していったことに気が付いた。バイチマンの後押しを得て、キーンは『The Winter Sun Shines In: A Life of Masaoka Shiki(正岡子規)』(2013)を完成させた。

バイチマンは、前述の61年のエッセーで日本文学を軽視する風潮を痛烈に批判していた若く威勢のいいキーンの姿を楽しく思い浮かべる一方で、後年のキーンが、そのような風潮を変えていく役割を積極的に果たしていったと強調した。キーンはコロンビア大学で日本文学の研究者や翻訳者を育てるこによって、かつて批判していた状況を自らの手で変えていったのだ。「キーン先生は、本気で学びたいと思っている人にはいつでも惜しみなく支援の手を差し伸べてくれました」

原文=英語

バナー写真:ジャニーン・バイチマンとドナルド・キーン(2017年、東京にて)© 鈴木伸幸

プロフィールおよび封筒の写真:ジャニーン・バイチマン提供

文学 ドナルド・キーン 翻訳